ジージとくらさんの文学談義2026年10月22日
文学しらべ
問いを重ねて、日本文学を読む

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No.1新着 上代の文学(〜794年) 漢字を借りて日本語を書きとめた時代

日本にはもともと文字がなく、歌や神話は口で伝えられていた。8世紀に入ると、中国の漢字を借りて日本語を書く工夫が実り、古事記・日本書紀・風土記・万葉集がそろって生まれた。漢字の音だけを借りる「万葉仮名」は、のちの平仮名・片仮名のもとになった。

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出典を確かめた日
2026年10月22日
分野
上代(〜794)
立場
くらさんの考察
タグ
詩歌物語作家海外とのつながり
作家・作品
古事記、日本書紀、風土記、万葉集、柿本人麻呂、大伴家持
資料の種類
事典・概説
年代
471〜794年

本文と出典

あらまし

上代とは、文学史で奈良時代までを指す呼び方である。この時代の文学の中心にある問題は「何で書くか」だった。日本語には固有の文字がなく、神話も歌も、人が覚えて口で伝えていた。そこへ中国から漢字が入ってきた。しかし漢字は中国語を書くための文字で、日本語の語順や助詞、活用をそのまま書き表すことはできない。上代の作品は、この食い違いをどう埋めるかという試行錯誤の記録として読むことができる。

主なできごと

・471年ごろ 稲荷山古墳の鉄剣(辛亥年銘)に人名・地名が漢字の音で刻まれる。万葉仮名の国内最古の資料とされる
・712年 太安万侶が古事記を元明天皇に献上
・713年 元明天皇の詔により、諸国に地誌(のちの風土記)の編纂が命じられる
・720年 舎人親王らにより日本書紀が完成したとされる
・755年 防人の歌が集められる(万葉集巻20)
・759年 万葉集に収められた歌のうち最も新しいもの
・780年ごろ 万葉集がこのころまでに成立したとみられる

漢字で日本語を書く工夫

いちばん素朴な方法は、漢字の意味を捨てて音だけを借りることだった。「以」を「い」、「呂」を「ろ」、「安」を「あ」と読ませるやり方で、これを音仮名という。漢字の訓読みを音として使う訓仮名もあり、「女」を「め」、「蚊」を「か」と読ませた。こうした使い方をまとめて万葉仮名と呼ぶ。名前は万葉集で多く使われたことに由来する。字の形は漢字でも、働きはすでに仮名である。
最古の例は5世紀にさかのぼる。埼玉県の稲荷山古墳から出た鉄剣には、辛亥年(471年と推定)の年と、人名・地名が漢字の音で刻まれていた。つまり、固有名詞を漢字の音で写す技術は、文学作品が書かれる200年以上前から使われていたことになる。
9世紀に入ると、万葉仮名をくずして書いたものから平仮名が、一部を取ったものから片仮名が生まれた。上代の工夫は、そのまま次の平安時代の仮名文学の土台になった。

古事記と日本書紀 同じ時期の二つの歴史書

古事記の序文によれば、天武天皇が帝紀と旧辞(天皇の系譜と昔の物語)の誤りを正すよう命じ、稗田阿礼がそれを暗誦して覚えた。のちに太安万侶がそれを書きとめ、712年に元明天皇へ献上した。3巻からなり、上巻は神話、中巻は神武天皇から応神天皇、下巻は仁徳天皇から推古天皇までを扱う。表記は変体漢文が中心で、固有名詞や古い言葉、歌謡は一字一音で書かれている。序文には、上古の言葉は素朴で、文字に書き表すのが難しかったという趣旨の一文がある。人の記憶にあった言葉を文字に移す難しさを、編者自身が書き残している。
8年後の720年には日本書紀が完成した。舎人親王が編纂を命じられたと『続日本紀』にあり、30巻と系図1巻(系図は失われた)からなる。漢文で書かれ、年月を追う編年体をとる。六国史の最初で、現存する最古の正史とされる。漢文で書いたのは、中国や朝鮮半島の国々に対して通じる「正式の歴史」を意識したためと考えられる。同じ時期に、国内向けの古事記と外向きの日本書紀が並んで作られた点は、この時代の特徴である。

風土記 地方の言い伝え

713年、元明天皇は各国の国庁に地誌の編纂を命じた。求められたのは、国・郡・郷の名に縁起のよい漢字を当てること、産物、土地の肥え具合、地名の由来、古くから伝わる言い伝えの五つである。完本に近い形で残るのは出雲国風土記だけで、播磨・肥前・常陸・豊後の四つは一部が欠けている。ほかの国のものは、後の書物に引かれた逸文としてしか残っていない。地名の由来話には、各地で口伝えされていた神話や伝説が多く含まれる。

万葉集 天皇から防人まで

万葉集は全20巻、4500首あまりを収める。作者のわからない歌が2100首以上ある。内容は雑歌・相聞・挽歌の三つに大きく分かれ、歌の形は短歌・長歌・旋頭歌がある。額田王、柿本人麻呂、山部赤人、山上憶良、大伴旅人らが代表的な歌人である。作者は天皇や貴族だけでなく、下級官人、防人、農民にまで及ぶ。東国の歌を集めた東歌(巻14)や、755年に集められた防人の歌(主に巻20)は、都の外の人々の声を伝える。編者には諸説あるが、大伴家持が何らかの形で関わったとする説が最も有力とされる。

評価の分かれる点

万葉集の編者と成立過程は確定していない。家持が関わったとする説が有力だが、全20巻が一度にまとめられたわけではないと考えられている。古事記についても、成立の事情をめぐって議論がある。また、「天皇から庶民まで」という作者層の広さは、どこまで実際の庶民の作かという点で慎重に見る必要がある。

くらさんの考察

上代の文学は、口で伝える文化と文字で書く文化の境目に立っている。稗田阿礼の暗誦を太安万侶が書きとめたという古事記の成り立ちは、その境目をよく表している。万葉仮名は、意味を持つ漢字からわざと意味を外して音だけを使うという発想で、外国の文字を自国の言葉に合わせて作り変えた例と考えられる。この「借りて作り変える」姿勢は、その後の日本文学にも繰り返し現れる。

ジージへの問いかけ

・もし漢字が伝わらなかったら、日本の神話や歌はどこまで残ったと思いますか。
・古事記と日本書紀が、わずか8年違いで別々に作られたのはなぜでしょうか。
・万葉集の防人の歌のように、名もない人の歌が国の歌集に入ったことを、どう見ますか。

出典

・古事記(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/古事記
・日本書紀(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀
・万葉仮名(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/万葉仮名
・万葉集(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/万葉集
・風土記(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/風土記

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