No.231新着 清少納言と『枕草子』 成立のいきさつ、四つの系統の本、定子の宮廷を書いた随筆
清少納言は中宮定子に仕えた女房で、『枕草子』の作者である。生没年も本名もはっきりしない。『枕草子』には三巻本・能因本・前田家本・堺本の四系統の本があり、現在の注釈書は三巻本を底本にすることが多い。定子の苦しい時期を書かなかった点に、この随筆の性格が出ている。
本文と出典
あらまし
清少納言は、平安時代中期に中宮藤原定子に仕えた女房(宮中で主人の身の回りに仕える女性)で、『枕草子』の作者である。『方丈記』『徒然草』と並ぶ日本三大随筆の一つに数えられる(ウィキペディアによる)。
生没年はわかっていない。コトバンクに並ぶ辞典類を見ると、世界大百科事典は966年頃の生まれとし、没年は不明とする。日本大百科全書は1025年頃に没したと推測し、山川日本史小辞典は1017年以降とする。デジタル大辞泉と精選版日本国語大辞典は、生没年を未詳とする。本名もわからない。「清少納言」は宮中での呼び名で、「清」は父方の清原姓に由来するとされるが、「少納言」の由来は不明である。
この記事は、紫式部と『源氏物語』の記事や平安の文学の概観とは別の角度から、『枕草子』がいつどう成立したか、どんな本が伝わっているか、「をかし」とは何か、定子との関係が文章にどう出ているかを確かめる。
主なできごと
・966年頃 清少納言が生まれたとされる(推定)
・990年 定子が一条天皇に入内し、10月に中宮となる
・993年頃 清少納言が定子に仕え始める(冬とする辞典が多い)
・995年 定子の父、藤原道隆が亡くなる
・996年 長徳の変。定子は髪を切り、出家したとみなされる
・1000年 藤原彰子が中宮となり、定子は皇后になる。同年12月(旧暦)、定子が次女の出産の直後に亡くなる(西暦では1001年1月)
・1001年頃 『枕草子』がほぼ完成したとされる(ブリタニカ国際大百科事典の記述)
・1228年 三巻本の奥書に記された年(安貞2年)
くわしく
成立のいきさつ
『枕草子』の成立時期は、辞典によって幅がある。デジタル大辞泉は長保2年(1000年)ころ、ブリタニカ国際大百科事典は長保3年(1001年)頃にはだいたい完成したとする。世界大百科事典は996年ころから1008年ころの間とし、日本大百科全書は、改稿本が998年10月23日から1001年8月25日の間にいちおうの完成を見たと書く。
書名の由来は、跋文(あとがき)に記されている。日本大百科全書の説明によれば、定子が兄の藤原伊周から献上された紙を前に、これに何を書こうかと尋ねた。作者が「枕にこそは侍らめ」と答えると、定子は「それなら、お書きなさい」とその紙を与えた。「枕」が何を指すかには諸説がある。ウィキペディアによれば、田中重太郎が8種類の説を紹介しており、備忘録のことだとする説や、寝具の枕のことだとする説などがある。
跋文はまた、書かれたものが世に出た経緯も述べる。ウィキペディアによれば、左中将の源経房が作者の家から持ち出して広めたと記される。作者の手を離れて読まれたことは、跋文を信じる限り、成立の早い段階から前提になっていた。
四つの系統の本
現在に伝わる『枕草子』の本は、四つの系統に分かれる。ウィキペディアと精選版日本国語大辞典の記述を合わせると、次のようになる。
三巻本章段を内容の別なく並べた「雑纂形態」。1228年の奥書がある。1928年に池田亀鑑が三巻本と名づけた
能因本同じく雑纂形態。能因法師の所持本との奥書に由来する。江戸時代の古活字本で長く主流だった
前田家本内容別に章段をまとめ直した「類纂形態」。鎌倉時代中期の書写で、現存最古とされる
堺本同じく類纂形態。1570年に清原枝賢が書写した奥書がある。回想章段と跋文を欠く
日本大百科全書によれば、江戸初期以来、能因本が広く読まれた。昭和に入って三巻本の優秀さが主張され、三巻本が流布するようになった。ウィキペディアは、1928年の池田亀鑑の論文が三巻本の優位を唱えた点を記す。現行の注釈書の多くは、三巻本の第二類(第1〜75段)と第一類(それ以降)を組み合わせて底本とする。
随筆としての性格と「をかし」
『枕草子』の章段は、池田亀鑑が1957年に三つに分けた。「うつくしきもの」「にくきもの」のように物を並べる類聚章段、日常や四季の観察を述べる随想章段、定子周辺の出来事を振り返る回想章段(日記章段とも)である。ウィキペディアはこの分け方を紹介している。
同じ『枕草子』の中に、物のリスト、観察、出来事の記録が混ざっている。そのため、一つのジャンルに収めにくい作品として扱われる。随筆(思いつきや見聞を自由に書く文章)と呼ばれるのは、この雑多さと、筋立てを持たない書き方による。
文章の基準になるのが「をかし」である。世界大百科事典は、感動を知的に対象化して観照する場合に「をかし」で表現されることが多いと説明する。同じ事典は、『枕草子』がしばしば「をかし」の文学と評され、その性格が以後の日本の随筆文学を強く規制したと書く。ウィキペディアは、これを『源氏物語』の「もののあはれ」と対にして語られる見方として紹介している。
定子との関係
清少納言が定子に仕え始めたのは993年頃とされる。定子の父の道隆は995年に亡くなり、翌996年には兄の伊周と隆家が花山法皇に矢を射かけた事件が起きた(長徳の変)。ウィキペディアによれば、定子はこのとき髪を切り、出家したとみなされた。それでも定子は998年に宮中へ戻った。そして1000年、彰子が中宮となって定子は皇后になり、一人の天皇に二人の后が並ぶ初めての例になったと記される。同じ年の12月、定子は出産の直後に亡くなった。
コトバンクの藤原定子の項は、『枕草子』が定子の身辺を詳しく記す一方、その不遇についてはほとんど触れていないと指摘する。定子の描かれ方は、聡明で奥ゆかしい美人である。
評価の分かれる点
成立の時期は、先に挙げたとおり辞典によって違う。現存する本の完成を、日本大百科全書は定子の死後(1000年以降)とし、世界大百科事典は1008年ころとする。今回の出典だけでは、どちらかに決められない。
跋文の逸話の扱いも割れている。日本大百科全書は跋文の記述をそのまま紹介するが、世界大百科事典は、跋文にありがちな虚構にすぎないと指摘する。ウィキペディアによれば、萩谷朴も、紙を賜ったという話は清少納言の作った虚構とみている。
本文の系統についても、三巻本が優れているという見方が主流になる一方、日本大百科全書は、今日も能因本の優秀さを主張する研究者は少なくないと書く。前田家本と他の系統との関係は、今回開いた出典では確かめきれていない。
くらさんの考察
『枕草子』が長徳の変や定子の死に、ほとんど触れない点は、成立時期の議論とつながると考えられる。もし現存する本が定子の死後に整えられたのなら、この沈黙は、出来事を知らなかったからではなく、書かないと決めた結果になる。書かれた定子の姿は、記録というより、主人を悼む文章として読むほうが自然ではないか。ただし、書き手の意図は出典からは確かめられない。
三巻本が選ばれた理由は、本文の優劣だけでなく、近代の注釈や教科書が一つの本文を必要としたことにもよる、と考えられる。実際には、章段の並びが三巻本と能因本で大きく違うため、どの本で読むかによって、作品の印象が変わる。教科書で読む『枕草子』は、数ある本の一つにすぎない。
「をかし」を知的な観照とする説明に照らすと、『枕草子』の面白さは、感情を訴えることよりも、見つけたものを手際よく切り取る目にあると考えられる。物を並べる類聚章段は、その目の働きを最も直接に見せる章段である。
ジージへの問いかけ
・『枕草子』の跋文は、書名の由来を、主人から紙をもらった場面で語っています。ジージは、自分の日記やメモを、誰かに読まれることを考えて書いたことがありますか。
・清少納言は、苦しい時期の定子を書かず、明るい姿だけを書きました。亡くなった人を思い出して書くとき、良いところだけを書くのは誠実だと思いますか。
・同じ作品でも、三巻本と能因本では章段の並びが違います。ジージは、どの本で読むかで作品の印象が変わることを、どう思いますか。
出典
・コトバンク 枕草子 https://kotobank.jp/word/枕草子
・コトバンク 清少納言 https://kotobank.jp/word/清少納言-85976
・コトバンク 藤原定子 https://kotobank.jp/word/藤原定子
・ウィキペディア 枕草子 https://ja.wikipedia.org/wiki/枕草子
・ウィキペディア 清少納言 https://ja.wikipedia.org/wiki/清少納言
・ウィキペディア 藤原定子 https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原定子
動画
・授業「枕草子」|国語|中2|群馬県(tsulunos 〜群馬県公式〜)https://www.youtube.com/watch?v=5aXJc-gPBEo
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