No.228新着 森鷗外(1862〜1922年) 陸軍軍医総監と作家の二つの顔、そして「石見人」として死ぬまで
森鷗外(本名・林太郎)は津和野に生まれ、陸軍軍医として昇進を重ねながら『舞姫』『雁』『阿部一族』『高瀬舟』などを書いた。1907年に軍医総監となり、脚気(ビタミン不足で起こる病気)をめぐる軍医としての責任は今も評価が分かれている。遺言は肩書きを退け、「石見人森林太郎」として死ぬことを望んだ。
本文と出典
あらまし
森鷗外は、1862年(文久2年)に石見国津和野(現在の島根県津和野町)で生まれた。本名は林太郎である。青空文庫の作家ページによれば、代々津和野藩の典医(藩主に仕える医者)の家の出で、両親の意向で医学を学び、陸軍軍医になった。
漱石や芥川は、作家であることが人生の中心にあった。鷗外は事情が違う。軍医としての仕事は副業ではなく、人生の大半を占める本業であり、小説はその傍らで書き続けられた。この記事では、その二重の生活を年表で確かめ、作品を並べ、評価が分かれる点を挙げる。
主なできごと
・1862年 石見国津和野に生まれる(旧暦1月19日。ウィキペディアは新暦2月17日とする)
・1881年 東京大学医学部を卒業し、陸軍軍医になる
・1884年 衛生学研究のためドイツに留学する(1888年に帰国)
・1890年 『舞姫』を『国民之友』に発表する
・1907年 陸軍軍医総監に進み、陸軍省医務局長になる
・1911〜1913年 『雁』を雑誌『スバル』に連載する
・1913年 『阿部一族』を『中央公論』に発表する
・1916年 『高瀬舟』を発表する。4月に医務局長を退く
・1916年 史伝『渋江抽斎』を書く(コトバンクの年表による)
・1918年 帝室博物館総長兼図書頭になる
・1922年7月9日 亡くなる(満60歳)
くわしく
軍医の道と留学
鷗外は1881年に東京大学医学部を卒業し、陸軍軍医になった。コトバンクは、1884年に衛生学の研究でドイツへ留学し、1888年に帰国したと記す。留学の目的は文学ではなく、陸軍の衛生制度と衛生学を学ぶことだった。
帰国後の1890年に、ドイツでの体験を踏まえた『舞姫』を『国民之友』に発表した。同じ年には『うたかたの記』も出ている。コトバンクは、これらを留学の成果として挙げている。
軍の階段と小説
軍人としての経歴は、日清戦争(1894〜1895年)への出征、1899年の小倉赴任、1904年から1906年にかけての日露戦争への従軍と続く。そして1907年10月に陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長に就いた。軍医総監は、ウィキペディアによれば陸軍中将に相当する地位である。
この時期にも小説は途切れない。コトバンクの年表では、1909年に『ヰタ・セクスアリス』が発禁処分を受け、1910〜1911年に『青年』、1911〜1913年に『雁』が書かれている。
歴史小説と『高瀬舟』
1912年9月、乃木希典が殉死した。ウィキペディアによれば、鷗外はその5日後に『興津弥五右衛門の遺書』の初稿を書き終えた。翌1913年1月には『阿部一族』を発表している。新潮社の紹介文は、この作品を、主君の死に際して殉死を許されなかった阿部弥一右衛門が切腹し、残された一族の立場がさらに厳しくなる話として紹介する。
1916年1月には『高瀬舟』を『中央公論』に発表した。新潮社の紹介文は、安楽死の問題を扱う作品と説明する。同じ1916年に医務局長を退き、予備役に入り、史伝『渋江抽斎』に取りかかった。
遺言
1922年7月9日、鷗外は萎縮腎(腎臓が縮んで働かなくなる病気)と肺結核で亡くなった。ウィキペディアによれば、亡くなる3日前の7月6日、友人の賀古鶴所に遺言を代筆してもらっている。その書き出しは「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で、墓には「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれた。軍医総監の肩書きも、文学者の名も、墓には出ていない。
評価の分かれる点
最も大きな論点は脚気である。ウィキペディアには、陸軍で脚気の被害が出たことについて、鷗外にはそもそも兵食(兵士の食事)を決める権限がなかったとする見方と、白米食を擁護したことが被害を広げたという批判の両方が載っている。細菌説にこだわり、栄養説を批判した点は強く批判される一方、臨時脚気病調査会が脚気研究とビタミン研究の基礎になったという評価もある。ここでは、どちらか一方に決めない。
文学の面では、史伝がある。同じ記事によれば、『渋江抽斎』などの史伝は、連載当時の読者や編集者の評判が悪かった。のちに全集が出ると評価が持ち直したという。
人物評も割れている。幸田露伴は晩年、鷗外を出世や蓄財を好む人物として語ったとされる。一方、ウィキペディアは、鷗外が女性を蔑視することが少なく、与謝野晶子や平塚らいてうを高く評価したとも記す。
『舞姫』の素材についても、一つに決めにくい。ウィキペディアは、1888年9月から10月にかけてドイツ人女性が日本に来て約1か月滞在したことを記し、これが『舞姫』の素材の一つになったとされる、と書く。ただし「素材の一つ」という書き方であり、物語とどこまで重なるかは、今回の出典では確かめきれていない。
くらさんの考察
鷗外の年表を見ると、仕事の節目と作品の発表が、同じ年に重なることが多い。1907年に軍医総監となった後の数年間に、『ヰタ・セクスアリス』『青年』『雁』が続く。最高位に就いてから小説が増えたことになり、地位が上がるほど書く余裕が減ったわけではない、と考えられる。
遺言についても、官職を捨てたとは言い切れない。「石見人」という言い方には、生まれた土地に立ち返る意味があったと考えられるが、本人の真意は出典からは確かめられない。
鷗外ならではの読み方は、作品を軍医の仕事と並べて読むことだと考えられる。鷗外は組織の中の地位を保ったまま書いた。『高瀬舟』が医務局長を退いた年の作であることは、偶然にすぎないかもしれないが、並べて見る価値はある。
ジージへの問いかけ
・鷗外は軍医総監という高い地位にありながら、小説を書き続けました。仕事を持ちながら何かを書いたり作ったりする生き方を、ジージはどう思いますか。
・遺言は肩書きを退け、「石見人森林太郎」として死ぬことを望みました。ジージなら、自分の墓にどんな言葉を刻みたいと思いますか。
・脚気をめぐっては、権限がなかったという見方と、責任があったという見方が分かれています。立派な作家の仕事の裏に、批判される面があるとき、作品の読み方は変わると思いますか。
出典
・コトバンク 森鷗外 https://kotobank.jp/word/森鷗外-16945
青空文庫 作家別作品リスト森鴎外 https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person129.html
・ウィキペディア 森鷗外 https://ja.wikipedia.org/wiki/森鷗外
・新潮社 『阿部一族/じいさんばあさん』書籍詳細 https://www.shinchosha.co.jp/book/830177/
・新潮社 『高瀬舟』書籍詳細 https://www.shinchosha.co.jp/book/831007/
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