No.233新着 松本清張(1909〜1992年) 印刷工から朝日新聞社へ、41歳の遅いデビュー、社会派推理から昭和史・古代史まで
松本清張は、給仕や印刷工を経て朝日新聞社の広告部で働き、41歳で懸賞小説に入選して作家になった。1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受け、1957〜58年の『点と線』で社会派推理小説の流行を起こし、のちに昭和史と古代史にも書く領域を広げた。同時代には、純文学側からの批判もあった。
本文と出典
あらまし
松本清張は、福岡県小倉(現在の北九州市)の出身で、1909年に生まれ、1992年8月4日に82歳で亡くなった作家である。小説家として世に出たのは41歳のときで、同世代の作家と比べて遅い。それまでの職歴は、電気会社の給仕、印刷所の見習い、版下(印刷の元になる図案を描く)職人、新聞社の広告部員と続いている。
芥川賞を受けた純文学系の書き手として出発し、『点と線』で推理小説の読者層を大きく広げ、さらに『昭和史発掘』や古代史の論考へと進んだ。小説、ノンフィクション、歴史研究にまたがる仕事量が特徴で、どの分野に置くかによって評価も割れる。
誕生日には異説がある。辞典類や松本清張記念館のページは1909年12月21日とするが、ウィキペディアは、記念写真の裏書きから実際の誕生日は2月12日と推定されているとし、出生地も広島とする説を挙げる。この記事では、年だけを確かな事実として扱う。
主なできごと
・1924年 小学校を卒業し、川北電気企業社小倉出張所の給仕になる
・1928年 小倉の印刷所で石版印刷の見習いになる
・1939年 朝日新聞西部支社の広告部の嘱託になる(入社年は資料により1937年、1939年と分かれる)
・1943年 広告部の正社員になる
・1944年 召集を受ける。1945年の敗戦は朝鮮の全羅北道で迎える
・1950年 『西郷札』が『週刊朝日』の懸賞小説に三等入選(ウィキペディアは1951年とする)
・1951年 『西郷札』が直木賞候補になる
・1952年 『三田文学』に『或る「小倉日記」伝』を発表する
・1953年 『或る「小倉日記」伝』で第28回芥川賞を受ける。12月、朝日新聞東京本社へ転勤して上京する
・1956年 朝日新聞社を退社し、作家業に専念する
・1957年 『旅』で『点と線』の連載が始まる
・1958年 『点と線』『眼の壁』が単行本になり、社会派推理小説のブームが起こる
・1960年 『文藝春秋』で『日本の黒い霧』の連載が始まる
・1964〜71年 『週刊文春』で『昭和史発掘』を連載する
・1966〜67年 古代史を論じた『古代史疑』を連載する
・1967年 第1回吉川英治文学賞を受ける
・1970年 菊池寛賞を受ける
・1990年 朝日賞を受ける
・1992年 8月4日、死去。絶筆は『神々の乱心』などとされる
くわしく 新聞社の広告部から作家へ
清張は小学校を出て、15歳で電気会社の給仕になった。月給は11円だった。その後は印刷所で見習いをし、版下を描く職人として自営した時期もある。1929年には、文学仲間との関係から、いわゆるアカ狩りで十数日間留置された。
朝日新聞との関係は、広告の版下を手がける仕事から始まった。入社の年は辞典によって1937年、1939年と違うが、1943年に正社員になったことは松本清張記念館のページにもウィキペディアにも出てくる。戦争末期に召集され、復員後は小倉で暮らした。ウィキペディアによれば、この時期には藁箒の仲買もしている。
転機は1950年である。『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」で三等に入選した。西南戦争のとき薩軍が出した軍票(西郷札)をめぐる時代小説で、翌年に直木賞の候補になった。新潮社の著者紹介も、この作品を懸賞小説の入選作、直木賞候補作として紹介している。
次に、木々高太郎のすすめで『三田文学』に載せた『或る「小倉日記」伝』が、1953年に第28回芥川賞を受けた。日本文学振興会の一覧では、1952年下半期の同じ回の受賞者として、五味康祐『喪神』も並んでいる。新潮社の紹介文によれば、この作品は、体が不自由で世間から理解されない青年が、母の支えを受けて夢を追う姿を描く。
清張は1953年12月に東京本社へ移り、1956年5月31日付で退社した。専業になったのは、芥川賞から3年後、46歳前後のことである。
くわしく 『点と線』と社会派推理
推理小説に向かった最初の作品はウィキペディアの年譜で1955年の『張込み』とされ、1957年には短編集『顔』が日本探偵作家クラブ賞を受けた。同じ年に雑誌『旅』で連載を始めたのが『点と線』である。
新潮社の紹介によると、舞台は博多に近い海岸で起きた心中事件である。容疑者には、事件の時刻に北海道にいたという堅いアリバイがあり、列車の時刻表を使った現実的な設定がその鍵になる。1958年に『眼の壁』とともに単行本が売れ、社会派推理小説のブームが起きた。
「社会派」の中身は、謎解きの面白さより犯行の動機に重心を置き、その動機を汚職や組織の圧力など現代社会のしくみに結びつける書き方である。デジタル大辞泉は、清張がこの分野を切り開いたと説明する。以後の長編も、1959年の『ゼロの焦点』、1961年の『砂の器』と続いた。
くわしく 昭和史と古代史へ
1960年の『日本の黒い霧』は、『文藝春秋』の連載で。1964年からの『昭和史発掘』は、資料にもとづいて昭和の出来事を追った連載で、週刊誌に7年ほど続いた。1967年には第1回吉川英治文学賞を受けた。
古代史では、『古代史疑』『古代探求』などの論考がある。1974年には、古代史研究に熱心な作家の高木彬光と論争した。
評価の分かれる点
同時代の文壇では、清張の登場が純文学と中間小説の境目を揺さぶったと、平野謙が論じている。三島由紀夫は、清張の文学を認めないとして、全集『日本の文学』への収録に反対したと伝えられる。1961年には大岡昇平と論争になり、大岡は、清張の推理小説やノンフィクションは、真実を描くというより作者の感情でゆがめられていると批判した。清張は反論した。以上はウィキペディアの記述による。
歴史研究の側では、評価が複数に分かれる。『昭和史発掘』について、有馬学は資料の水準の高さを指摘している。『古代史疑』には、井上光貞と上田正昭が高い評価を与えた。一方、佐原真は発想の刺激を評価しつつ、考えに従えない点も多いとした。門脇禎二と森浩一は、学界に刺激を与えたと認めながら、のちの発掘で否定された説もあると述べている。これもウィキペディアの整理による。
生没年と受賞年にも資料間のずれがある。精選版日本国語大辞典は没年を1994年とするが、ほかの辞典と記念館は1992年で、これは誤記と考えられる。芥川賞の年は、受賞作の決定が1952年下半期、受賞は1953年と書く資料があり、辞典によって1952年とも1953年とも書かれる。
くらさんの考察
清張の出発点は、純文学の賞と大衆の読者という二つの場に同時にまたがっていた。芥川賞の受賞作と、懸賞小説の入選作が、同じ作家の最初の仕事だったからである。のちに平野謙が境目の揺らぎを論じ、大岡昇平や三島由紀夫が距離を取ったことは、この二重性への反応だったと考えられる。
『点と線』が当たった理由の一つは、時刻表とアリバイという謎解きの形を保ちながら、動機を汚職の側に置いたことにあると考えられる。読者は、犯人当ての面白さと、現実の社会に通じる手触りを同時に得られた。
今読む意味は、二つ挙げられると考えている。一つは、新聞社で働いた人が、報道では書ききれない事件の背景を小説と調査で補おうとした点である。『日本の黒い霧』や『昭和史発掘』は、評価が分かれながらも、その姿勢をはっきり示している。もう一つは、学歴や出自の有利を持たない書き手が、遅いデビューのあとに、領域を広げていった点である。ただし、古代史の説の当否は専門家の判断に委ねるべきで、小説の魅力と切り離して読むのがよいと考えられる。
ジージへの問いかけ
・41歳のデビューは今ならとても遅く見えますが、新聞社の広告部で働いた経験は、清張の作風にどう出ていると思いますか。
・時刻表を使った『点と線』は、スマホ以前の旅の空気を伝えています。ジージが子どものころに乗った列車の記憶と重なる場面はありましたか。
・芥川賞を受けた作家が推理小説で売れたことを、純文学と大衆文学の線引きから見て、どう受け止めるでしょうか。
出典
・ウィキペディア「松本清張」 https://ja.wikipedia.org/wiki/松本清張
・コトバンク「松本清張」(デジタル大辞泉、日本大百科全書、20世紀日本人名事典ほか) https://kotobank.jp/word/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B8%85%E5%BC%B5-136769
・松本清張について(松本清張記念館) https://www.seicho-mm.jp/aboutseicho/
・芥川賞の一覧(日本文学振興会) https://bungakushinko.or.jp/award/akutagawa/list.html
・新潮社『或る「小倉日記」伝』 https://www.shinchosha.co.jp/book/830128/
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