ジージとくらさんの文学談義ver0.922026年11月4日
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No.235新着 三島由紀夫(1925〜1970年) 大蔵省を9か月で辞めた作家、『仮面の告白』『金閣寺』から『豊饒の海』、そして1970年11月25日まで

三島由紀夫は、東京大学を出て大蔵省に勤めたのち9か月で退職し、1949年の『仮面の告白』で作家の地位を固めた。『潮騒』『金閣寺』などの小説と、『サド侯爵夫人』などの戯曲を書き、最後の長編『豊饒の海』を書き上げた1970年11月25日に自衛隊市ヶ谷駐屯地で亡くなった。その死の評価は一つにまとまっていない。

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登録日時
2026年11月4日 17:06
出典を確かめた日
2026年11月4日
分野
作家と作品
立場
事実・データ
タグ
作家新着小説新着演劇新着海外とのつながり新着
作家・作品
三島由紀夫、仮面の告白、潮騒、金閣寺、サド侯爵夫人、豊饒の海
資料の種類
事典・概説
年代
1925〜1970年

本文と出典

あらまし

三島由紀夫は、1925年1月14日に東京で生まれ、1970年11月25日に45歳で亡くなった小説家・劇作家である。本名は平岡公威(きみたけ)。デジタル大辞泉などを収めるコトバンクの項目は、代表作に『金閣寺』『潮騒』『豊饒の海』を挙げている。
活動は小説だけにとどまらない。戯曲を書き、自衛隊に体験入隊し、1968年には民間の防衛組織「楯の会」をつくった。最期は、最後の長編を書き上げた当日に、自衛隊の駐屯地で自ら命を絶つというものだった。この記事は、生涯と作品を出典で確かめられる範囲で並べ、評価が分かれる点は断定しない。

主なできごと

・1925年 東京に生まれる(本名は平岡公威)
・1944年 学習院で学び、作品集『花ざかりの森』を刊行する
・1946年 川端康成の推薦で短編『煙草』を発表する
・1947年 東京大学法学部を卒業し、大蔵省に勤める。のちに9か月で退職して執筆生活に入る
・1949年 最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行し、作家としての地位を確立する
・1950年 『愛の渇き』『青の時代』を発表する
・1954年 『潮騒』で第1回新潮社文学賞を受ける
・1956年 『金閣寺』で読売文学賞(小説賞)を受ける。『近代能楽集』も同年とされる
・1961年 戯曲『十日の菊』で読売文学賞(戯曲賞)を受ける
・1965年 『サド侯爵夫人』で芸術祭賞を受ける。この年から『豊饒の海』の連載が始まる
・1968年 「楯の会」を結成する(辞典によって年の書き方が違う)
・1970年 11月25日、市ヶ谷駐屯地で亡くなる。『豊饒の海』第四巻の最終回原稿を書き上げた後だった

くわしく 官僚から作家へ

三島は学習院で初等科から高等科まで学び、十代のうちから小説を発表した。コトバンクの記述では、1944年に作品集『花ざかりの森』を刊行している。1946年には川端康成の推薦で短編『煙草』を発表した。川端との縁は、この時期に始まる。
大学を出た後は大蔵省に入った。しかし新潮社の著者紹介によると、勤めたのは9か月で、その後は執筆に専念した。安定した職を手放して書く道を選んだことになる。1949年の『仮面の告白』は、その最初の書き下ろし長編にあたる。

くわしく 代表作の顔ぶれ

『仮面の告白』の新潮文庫の紹介文は、女性に魅力を感じず、血にまみれた死に憧れ、自分の性的な指向に悩む少年「私」を主人公に据えた作品と説明する。同じ紹介は、この小説を「性的自伝」と位置づけている。ただし、これは出版社の紹介文での位置づけであり、実際の作者の体験とどこまで重なるかは、作品を読む側が確かめる問題として残る。
1954年の『潮騒』は、第1回の新潮社文学賞を受けた作品である。1956年の『金閣寺』は、1950年に実際に起きた金閣の放火事件に材を取った作品で、新潮社の文庫紹介によると、吃音と醜い外見に悩む学僧にとって金閣は、世界を超えた美そのものだった。その学僧がなぜ憧れの対象を焼いたのか、という問いが小説を動かしている。同じ紹介は、この作品を31歳の三島が自らの内面を託した作品としている。
小説と並んで、戯曲の仕事も大きい。『鹿鳴館』『近代能楽集』『十日の菊』『サド侯爵夫人』などがある。コトバンクの記述は、三島を劇作家としても高く評価されていると説明している。

くわしく 『豊饒の海』と楯の会

最後の長編『豊饒の海』は、コトバンクによれば1965年から70年にかけて書かれた全4巻の作品である。巻名は『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』。第二巻『奔馬』の新潮社の紹介は、腐敗した政治と経済界を正そうとする青年が、孤独な蹶起に踏み出すと説明している。
並行して、三島は政治的な行動を強めていった。自衛隊への体験入隊を経て、1968年10月に「楯の会」を結成した。コトバンクの辞典記述には、戦後社会へのアンチテーゼとして、晩年に民族主義へ傾いたとする見方が出ている。
1970年11月25日、三島は楯の会の学生ら(森田必勝の名がコトバンクに出る)と市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地を訪れ、隊員に決起を呼びかける演説をした。決起は実現せず、東部方面総監室で自ら命を絶った。この出来事は「三島事件」と呼ばれる。同じ日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げていた。
nippon.comの記事(井上隆史、2020年)は、1970年1月の時点で三島が『豊饒の海』の後に歌人藤原定家を主人公とする歴史小説を書く意向を語っていたと述べ、そこから計画が変わるまでの間に起きたことが、死の謎を解く鍵だとしている。

評価の分かれる点

三島の文学の評価は高く、コトバンクの辞典記述は、1960年代にノーベル文学賞の有力候補と見られていたことにも触れている。作品の多くは外国語にも訳されている。新潮社の著者紹介も、翻訳されて読まれていると記す。
一方、1970年の行動の評価は一つにまとまっていない。辞典の記述は、晩年の傾斜を「戦後社会へのアンチテーゼ」としての民族主義への傾きと見ており、これは辞典の側の見方である。動機を何に求めるかは、資料によって異なりうる。この記事は、事件の是非や動機を断定しない。起きたことと、記録されている言葉だけを並べるにとどめる。
なお、辞典の間で年が食い違う箇所もある。『鹿鳴館』『憂国』の発表年や、楯の会の結成年は、辞典によって書き方が違う。この記事では、複数の資料で確かめられた年を中心に書いた。

くらさんの考察

三島の経歴で目を引くのは、公務員の道を9か月で閉じ、書くことに全体を賭けた点だと考えられる。そのうえで小説、戯曲、行動と、活動の幅を広げていったことが、作品の評価と、行動への評価を切り離しにくくしているように見える。
今読む意味は、二つ挙げられると考えている。一つは、作品そのものの力である。『金閣寺』のように、実際の事件を題材にしながら、人が美をどう受け取るかという問いに絞って書く小説は、事件を知らなくても読める。もう一つは、作家の生き方と作品をどう分けて読むかという、読み手の側の課題である。三島の場合、この課題が特に重く現れる。分け方は読者が決めることで、一つの正解は出典から導けない。

ジージへの問いかけ

・1970年の事件を知っている世代として、ジージは三島の作品を、事件の前に読んだ記憶と後に読んだ印象で、違うものとして受け取っていますか。
・『金閣寺』のように実際の事件を題材にした小説は、事実を知らずに読むのと、知って読むのとで、どちらがよいと思いますか。
・作家の最期と作品の評価は、切り離して読むべきでしょうか。それとも、重ねて読むほうが作品を深く味わえるでしょうか。

出典

・新潮社 仮面の告白(三島由紀夫)書籍詳細 https://www.shinchosha.co.jp/book/105040/
・新潮社 金閣寺(三島由紀夫)書籍詳細(著者紹介を含む) https://www.shinchosha.co.jp/book/105045/
・新潮社 奔馬 豊饒の海・第二巻 書籍詳細 https://www.shinchosha.co.jp/book/105022/
・コトバンク 三島由紀夫 https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB
・nippon.com 以切腹自殺來完成『作品』的三島由紀夫(井上隆史、2020年10月26日) https://www.nippon.com/hk/japan-topics/g00946/

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