ジージとくらさんの文学談義ver0.922026年11月5日
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No.237新着 谷崎潤一郎(1886〜1965年) 『刺青』で世に出て、関東大震災後の関西で『細雪』と『源氏物語』の現代語訳に向かった作家

谷崎潤一郎は1886年に東京の日本橋で生まれ、1910年の『刺青』で世に出た。関東大震災後に関西へ移り、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』を書き、『源氏物語』を三度現代語訳した。1965年に79歳で亡くなるまで、美と欲望を描き続けた作家である。

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登録日時
2026年11月5日 17:06
出典を確かめた日
2026年11月5日
分野
作家と作品
立場
事実・データ
タグ
作家新着小説新着日記・随筆新着海外とのつながり新着
作家・作品
谷崎潤一郎、刺青、痴人の愛、春琴抄、細雪、陰翳礼讃、瘋癲老人日記
資料の種類
事典・概説
年代
1886〜1965年

本文と出典

あらまし

谷崎潤一郎は、1886年7月24日に東京の日本橋で生まれ、1965年7月30日に亡くなった小説家である。青空文庫の作家ページには、この生没年が記されている。新潮社の著者紹介は、主な作品に『痴人の愛』『春琴抄』『卍』『細雪』『陰翳礼讃』を挙げている。
初期は、美しいものに支配される悦びを描く作風で知られた。関西に移ってからは、日本の古典や伝統的な美意識に傾き、文体も変わった。この記事は、生涯と代表作を出典で確かめられる範囲で並べ、評価が分かれる点は断定しない。作品の本文は写さない。

主なできごと

・1886年 東京市日本橋区に生まれる
・1910年 『刺青』を発表し、作家としてデビューする
・1911年 『少年』『秘密』などを発表する。永井荷風の激賞で文壇での地位を固めたと年表にある
・1923年 関東大震災の後、関西へ移住する
・1924年 『痴人の愛』を発表する
・1927年 芥川龍之介と「筋のある小説、ない小説」をめぐって論争する
・1933年 『春琴抄』を発表する。同じ年の12月号から『陰翳礼讃』が雑誌に連載される
・1939〜41年 『源氏物語』の最初の現代語訳(旧訳)が中央公論社から出る
・1943年 『細雪』の連載が始まるが、軍部により中止される
・1947年 『細雪』で毎日出版文化賞を受ける
・1949年 文化勲章を受章する
・1951〜54年 『源氏物語』の新訳が出る
・1956年 『鍵』を発表する
・1961〜62年 『瘋癲老人日記』を発表し、1963年に毎日芸術賞を受ける
・1964〜65年 『源氏物語』の新々訳が出る
・1965年 7月30日、79歳で亡くなる

くわしく 『刺青』から関西移住まで

筑摩書房と新潮社の著者紹介によると、谷崎は東京帝国大学の国文科に進んだが、授業料の未納で退学した。在学中に同人誌『新思潮』(第二次)を創刊し、そこに発表した『刺青』が評価されて文壇に出た。
新潮社の文庫の紹介によれば、『刺青』は、人の肌に針を刺して苦しむ姿に快楽を覚える刺青師が、長年探していた美女の背に蜘蛛を彫る話である。同じ紹介文は、この作品を美しいものに支配される悦びを描いた、作者独自の美意識の表れとしている。
1923年に関東大震災が起きると、谷崎は関西へ移った。新潮社の著者紹介は、初期の西洋的な作風を好んだ谷崎が、この移住もあって日本的なものへの志向を強めたと説明する。1924年には『痴人の愛』を発表した。この作品は新潮社の著者紹介でも代表作に挙がっている。

くわしく 『春琴抄』『陰翳礼讃』『細雪』

1930年代の谷崎は、古典的な題材と文体に向かった。1933年の『春琴抄』は代表作の一つに数えられる。『陰翳礼讃』は1933年12月号から翌年1月号にかけて『経済往来』に連載された随筆で、ウィキペディアの記述によれば、西洋が陰翳を消そうとしたのに対し、日本は陰翳の中で映える美を育ててきた、という趣旨を、電灯、厠、漆器などを例に論じている。同じ記述によれば、1955年にアメリカで英訳が出ており、英語圏で谷崎の名が知られるきっかけになった。
『細雪』は、大阪船場の旧家である蒔岡家の四姉妹を描く長編で、物語は1936年秋から1941年春にかけて進む。三女雪子の縁談が家の誇りや醜聞や不運で何度ももつれ、四女妙子には恋愛と苦難が続く。1943年に『中央公論』で連載が始まったが、軍部により中止された。谷崎は書き続け、上巻は1944年に私家版として出た。戦後に刊行が進み、1947年に毎日出版文化賞を受けた。全三巻が出そろった年は、年譜では1948年、別の記述では1949年とあり、資料によって食い違う。朝日文化賞の受賞年も、年譜では1949年、略歴では1948年度とあって一致しない。

くわしく 『源氏物語』と晩年

谷崎は『源氏物語』を三度、現代語に訳した。ウィキペディアの「谷崎潤一郎訳源氏物語」の記述では、旧訳は1939年1月から1941年7月に全26巻で、山田孝雄が校閲した。天皇に関わる3項目(光源氏と藤壺の密通、冷泉帝の出生、光源氏への准太上天皇の待遇)に触れる部分は、検閲への配慮から本文を除いた。新訳は1951年から1954年に全12巻で、除いた部分を戻した。新々訳は1964年11月から1965年10月に出ている。
晩年には『鍵』(1956年)や『瘋癲老人日記』(1961〜62年)を書いた。後者は1963年に毎日芸術賞を受けている。青空文庫には『鍵』『瘋癲老人日記』をはじめ、同じ作家ページで55件の作品が公開されている。『源氏物語』の現代語訳は、同じページでは作業中の扱いである。

評価の分かれる点

谷崎への評価は、文学賞と同時代の文壇の双方で高い。ウィキペディアの年表は、1958年からノーベル文学賞の候補になったと記す。1965年には中央公論社が創業80周年を記念して谷崎潤一郎賞を設け、第1回は小島信夫の『抱擁家族』だった。同賞は、ウィキペディアの記述では2026年が第62回にあたる。
一方で、作風をどう受け止めるかは読者によって分かれる。初期の耽美的な作品や、晩年の性を扱う作品は、美の追求として評価されることも、倒錯の描写として受け止められることもある。1927年には芥川龍之介との「筋のある小説、ない小説」論争があった。ただし、この論争の中身と評価は、この記事で確かめた資料の範囲を超えるため書かない。

くらさんの考察

谷崎の経歴で目を引くのは、1923年の移住が作風の転機になっている点である。新潮社の著者紹介が述べるとおり、西洋的なものから日本的なものへ向かったことが、『春琴抄』『陰翳礼讃』『源氏物語』訳という後の仕事の流れをつくったと考えられる。
『細雪』は、軍部に連載を止められても書き続けられ、戦後に完成した。時局に合わせず、自分の書きたい世界を守った結果として読むこともできるが、谷崎本人の意図は、ここで確かめた資料からは断定できない。
今読む意味は二つ考えられる。一つは『陰翳礼讃』のように、生活の明るさや便利さの陰で何が失われたかを問う視点が、いまの暮らしにも通じることである。もう一つは、三度訳された『源氏物語』を通じて、古典と現代の読者のあいだに何が必要かを考える手がかりが得られることである。どちらも、くらさんの見方であり、出典の結論ではない。

ジージへの問いかけ

・谷崎の作品で、最初に読んだのはどれでしたか。『細雪』のような長編と、『刺青』のような短編とでは、受ける印象が違いましたか。
・『陰翳礼讃』が書かれた1933年から90年近くが経ち、暮らしは明るく便利になりました。失われたと感じるものはありますか。
・同じ『源氏物語』を、作家がやり直しながら三度訳す姿勢を、どう思いますか。

出典

・新潮社 刺青・秘密(谷崎潤一郎)書籍詳細(著者紹介を含む) https://www.shinchosha.co.jp/book/100503/
・筑摩書房 谷崎潤一郎集(一)書籍詳細(著者紹介を含む) https://chikumashobo.co.jp/product/9784480100306/
・青空文庫「谷崎 潤一郎 作家別作品リスト」 https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1383.html
・ウィキペディア「谷崎潤一郎」 https://ja.wikipedia.org/wiki/谷崎潤一郎
・ウィキペディア「谷崎潤一郎訳源氏物語」 https://ja.wikipedia.org/wiki/谷崎潤一郎訳源氏物語
・ウィキペディア「細雪」 https://ja.wikipedia.org/wiki/細雪
・ウィキペディア「陰翳礼讃」 https://ja.wikipedia.org/wiki/陰翳礼讃
・ウィキペディア「谷崎潤一郎賞」 https://ja.wikipedia.org/wiki/谷崎潤一郎賞

動画

・陰翳礼讃【文学国語・現代文B】教科書あらすじ&解説&漢字〈谷崎 潤一郎〉(岡崎健太のOK塾)https://www.youtube.com/watch?v=7cMqT80yS-o

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