No.3新着 中世の文学(1185〜1603年) 戦乱と無常が語りと芸能を広げた
武士の時代になると、文学の担い手と受け手が貴族の外へ広がった。平家物語は琵琶法師が語って聞かせ、能は将軍の後押しで芸術になり、連歌は大勢で一つの作品を作った。戦乱や災害を背景に、無常を見つめる随筆も書かれた。
本文と出典
あらまし
中世は、鎌倉幕府の成立から江戸幕府の始まりまでの約400年である。政治の主役が貴族から武士に移るなかで、文学にも三つの変化が起きた。一つは、宮廷の和歌がもう一度頂点を迎えたこと。二つめは、戦乱や災害を見つめる随筆と軍記物が生まれたこと。三つめは、語り物・能・連歌のように、声や舞台や座を通して大勢が楽しむ文学が広がったことである。読む文学から、聞く・見る・参加する文学へ広がった時代といえる。
主なできごと
・1205年 新古今和歌集がひとまず完成(その後1216年まで改訂が続く)
・1212年 鴨長明が方丈記を書く
・1219年ごろ 宇治拾遺物語
・1240年 「治承物語」の名が紙背文書に現れる(平家物語はこれ以前に成立とみられる)
・1283年 無住の沙石集
・1330〜31年ごろ、または1349年ごろ 吉田兼好の徒然草(成立年に二説)
・1356年 二条良基が救済の協力で菟玖波集を撰ぶ。翌年、准勅撰となる
・1371年 明石覚一が没する。覚一本平家物語を完成させた人物
・1374または1375年 12歳の世阿弥が新熊野神社で足利義満の目にとまる
・1400年ごろ 世阿弥の風姿花伝
・1434年 世阿弥が佐渡へ流される
・1495年 宗祇らの新撰菟玖波集
宮廷和歌の最後の頂点
新古今和歌集は、後鳥羽院の命で作られた勅撰和歌集である。1201年に和歌所が設けられ、藤原定家ら6人が撰者に任じられた。全20巻、約1970首で、最も多く入っているのは西行の歌である。幽玄や有心を理想とし、本歌取りや体言止めを多く使う歌風は「新古今調」と呼ばれ、後の連歌・俳諧・謡曲に影響した。後鳥羽院は承久の乱で隠岐へ流されたあとも歌集を編み直し続けた。政治の力を失った宮廷が、和歌に力を注いだ形である。
無常を見つめる随筆
方丈記は1212年、鴨長明が書いた。冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして」で知られる。都の大火(1177年)、竜巻(1180年)、福原遷都(1180年)、養和の飢饉(1181〜82年)、大地震(1185年)を、自分の見聞として記録している。漢字と仮名を交えた和漢混淆文の早い例とされる。
徒然草は卜部兼好(吉田兼好)の作とされ、序段を含め243段からなる。成立年は1330〜31年ごろとする説が長く有力だったが、1349年ごろにまとめたとする説もある。室町中期に歌人の正徹が注目したが、広く読まれたのは江戸時代で、1661年や1667年に注釈書が出版され、町人にも親しまれた。
平家物語と琵琶法師
平家物語は鎌倉時代に成立したとみられるが、作者はわからない。徒然草は、信濃前司行長が作り、盲目の生仏に語らせたと書いている。この物語は、目で読むより耳で聞かれた。盲人の琵琶法師が琵琶を弾きながら節をつけて語り、これを平曲と呼ぶ。南北朝期の明石覚一は、詞章と節回しを整えた覚一本を完成させ、盲人の組織である当道座の最初の検校になったとされる。語り本とは別に、源平盛衰記のような読み本系の本もある。文字を読めない人も、語りを通して同じ物語を知ることができた。
説話と御伽草子
説話は、民間に伝わる話を知識人が書きとめたものである。宇治拾遺物語、十訓抄(1252年)、古今著聞集(1254年)、沙石集(1283年)などが中世に編まれた。室町時代には、短い絵入りの物語である御伽草子が多く作られた。400編を超えるとされ、多くは作者がわからない。庶民や動物、神仏の化身が主人公になり、文章は比較的やさしい。「御伽草子」の名は、18世紀前期に大坂の渋川清右衛門が23編を『御伽文庫』として出したことから広まった。
能と連歌
能は、観阿弥・世阿弥の父子が大成した。12歳の世阿弥は将軍足利義満に見いだされ、以後、父子は義満の保護を受けた。世阿弥は風姿花伝で、観客を感動させる力を「花」と呼び、「秘すれば花なり」と書いた。晩年の1434年に佐渡へ流されたが、理由はわかっていない。
連歌は、五七五の句と七七の句を何人もで交互に付けていく詩である。鎌倉後期には百句を連ねる百韻が基本になった。南北朝期の二条良基は菟玖波集を撰び、1357年に准勅撰の扱いを受けた。1495年には、大名大内政弘の発案で宗祇らが新撰菟玖波集を編んだ。戦国末期には、くだけた言葉と笑いを持ち込んだ俳諧の連歌が始まり、江戸時代の俳諧へつながる。
評価の分かれる点
平家物語の作者と成立過程、徒然草の成立年、世阿弥が佐渡へ流された理由と、その後に京へ戻ったかどうかは、いずれも説が分かれていて確定していない。
くらさんの考察
中世の文学が貴族の外へ広がったのは、文字が読めなくても参加できる形が育ったからと考えられる。平曲は耳で、能は目で楽しめ、連歌は座に集まった人が一緒に作る。戦乱で人の命や財産がたやすく失われる時代に、無常を語る物語や随筆が受け入れられたことも、聞き手の実感と結びついていたのだろう。
ジージへの問いかけ
・平家物語を「読む」のではなく琵琶法師の語りで「聞く」と、受け取り方はどう変わると思いますか。
・方丈記の災害の記録は、今の災害の多い日本で読むと、どう感じられるでしょうか。
・大勢で一つの作品を作る連歌は、個人の作品が中心の今の文学と比べて、どこが面白いと思いますか。
出典
・新古今和歌集(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/新古今和歌集
・方丈記(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/方丈記
・徒然草(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/徒然草
・平家物語(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/平家物語
・説話(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/説話
・御伽草子(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/御伽草子
・世阿弥(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/世阿弥
・連歌(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/連歌
・菟玖波集(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/菟玖波集
・新撰菟玖波集(ウィキペディア) https://ja.wikipedia.org/wiki/新撰菟玖波集
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが文学QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。