No.5新着 明治の文学(1868〜1912) 話すように書く文章と「私」を書く小説が生まれた
明治の文学は、坪内逍遥の『小説神髄』が「人の心を写す」ことを小説の目的に据えたところから動き出した。二葉亭四迷らの言文一致で書き言葉が話し言葉に近づき、紅葉・一葉・子規・晶子・鷗外・漱石が登場する。明治末には藤村『破戒』と花袋『蒲団』から自然主義が広がり、作者の体験をそのまま書く私小説の流れが始まった。
本文と出典
あらまし
明治の前半、小説は江戸の戯作の続きとして、勧善懲悪の読み物と見られていた。これを変えたのが坪内逍遥の『小説神髄』(1885〜86年)である。逍遥は小説から道徳の教えを外し、人の心(人情)をありのままに写すことを小説の中心に置いた。この考えを実作で試したのが二葉亭四迷の『浮雲』で、話し言葉に近い文体(言文一致)が小説に入ってくる。
明治20〜30年代には、尾崎紅葉の硯友社が娯楽としての小説を広め、樋口一葉が短い生涯に名作を残した。詩歌では正岡子規が俳句と短歌を作り直し、与謝野晶子の『みだれ髪』が恋をうたう新しい短歌を見せた。森鷗外と夏目漱石は、西洋で学んだ知識人として、近代の個人の悩みを書いた。明治の終わりには島崎藤村と田山花袋が自然主義を打ち出し、ここから「作者自身を書く」私小説が日本の小説の大きな流れになる。
主なできごと
・1885年 坪内逍遥『小説神髄』刊行開始(翌年にかけて全9冊)。尾崎紅葉・山田美妙らが硯友社を結成し『我楽多文庫』を出す
・1887年 二葉亭四迷『浮雲』第1篇(坪内逍遥の名義で出版)。言文一致小説の始まりとされる
・1890年 森鷗外『舞姫』(『国民之友』)。石橋忍月との「舞姫論争」
・1895年 樋口一葉『たけくらべ』(『文學界』に翌年まで連載)、『にごりえ』『十三夜』
・1896年 樋口一葉が24歳で死去
・1897年 尾崎紅葉『金色夜叉』を『読売新聞』に連載開始(1902年で中断)
・1901年 鳳晶子(与謝野晶子)『みだれ髪』
・1902年 正岡子規が34歳で死去
・1903年 尾崎紅葉が死去し、『金色夜叉』は未完、硯友社も解散
・1905年 夏目漱石『吾輩は猫である』(『ホトトギス』)
・1906年 島崎藤村『破戒』(自費出版)
・1907年 田山花袋『蒲団』(『新小説』)。漱石が朝日新聞社に入社
・1912年 乃木希典の殉死。鷗外が歴史小説へ向かうきっかけになる
話すように書く:言文一致
明治の初め、書き言葉は漢文調や和文調で、話す言葉とはかけ離れていた。二葉亭四迷は逍遥の勧めで、三遊亭圓朝の落語の速記本を手本にして『浮雲』の文体を作ったとされる。文末は主に「だ」を使った。山田美妙は「です」を、紅葉は少し遅れて「である」を使った。コトバンクの解説によると、言文一致体は明治35年(1902年)ごろに一応の完成をみ、1904年の国定教科書『尋常小学読本』には口語文が入った。新聞記事が全面的に口語になったのは大正10年(1921年)ごろ、法令文が口語になったのは戦後の1946年である。この記事が「だ・である」で書かれているのも、この流れの先にある。
娯楽の小説と、短い命の作家たち
硯友社は、改革や実利を求める考えを退け、文学を楽しみとして広めようとした。紅葉の『金色夜叉』は新聞小説として読まれ、熱海の海岸で貫一がお宮を蹴る場面は、後の舞台や映画を通じて広く知られた。この場面が熱海の知名度を上げたともいわれる。
樋口一葉は、研究家の和田芳恵が「奇跡の14ヶ月」と呼んだ短い期間に『たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』を書いた。2004年から2024年まで五千円札の肖像になったことで、名前を知る人は多い。正岡子規は結核で寝たきりになりながら『病牀六尺』などを書き続け、目で見たとおりに写す「写生」を俳句と短歌の柱にした。子規と漱石は大学予備門で友人になった仲である。
鷗外と漱石:留学した知識人の文学
森鷗外は陸軍の軍医で、1884年から約4年ドイツに留学した。帰国後の『舞姫』は、留学生が現地の女性を捨てて帰国する話で、主人公の弱さをめぐって論争が起きた。1912年の乃木希典の殉死に動かされ、『阿部一族』『高瀬舟』などの歴史小説、さらに『渋江抽斎』などの史伝へ進んだ。
夏目漱石は1900年に英国へ留学し、帰国後の1905年に『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に載せた。1907年に大学の職を辞めて朝日新聞社に入り、新聞に小説を連載する職業作家になった。『こゝろ』(1914年)も朝日新聞の連載である。
自然主義と私小説の始まり
島崎藤村の『破戒』(1906年)は、日本の自然主義文学の先陣とされ、漱石も「後世に伝ふべき名篇」と書いた。翌年の田山花袋『蒲団』は、妻子ある作家が若い女弟子に寄せる欲望をあからさまに書き、文壇と新聞で大騒ぎになった。女弟子には実在のモデルがいた。この『蒲団』を私小説の始まりとする説が有力である。
評価の分かれる点
私小説の始まりをどこに置くかは定まっていない。『蒲団』とする説が有力だが、評論家の平野謙は1913年の近松秋江『疑惑』と木村荘太『牽引』を確立の時期と見た。また、『浮雲』は第3篇が「終」で終わるが、続きの構想メモが見つかっているため、一般には未完の作とされる。
くらさんの考察
明治の文学の中心にあった課題は、「何を書くか」より先に「どんな言葉で書くか」だったと考えられる。言文一致が整うまで約20年かかり、その間に一葉や鷗外は文語で名作を書いた。話し言葉に近い文体が整った明治の終わりに、作者が自分の内面をそのまま書く私小説が出てきたのは偶然ではなく、文体の変化と「告白」の形が結びついていたと考えられる。
ジージへの問いかけ
・樋口一葉や鷗外の『舞姫』は文語で書かれています。言文一致の文章と比べて、読みにくさより味わいを感じることはありますか。
・漱石が大学を辞めて新聞社の専属作家になったのは、当時としては思い切った選択でした。ジージは、新聞に毎日小説が載っていた時代をどう思いますか。
・『蒲団』のように、作家が自分の恥ずかしい部分まで書くことを、文学の誠実さと見ますか、それとも行き過ぎと見ますか。
出典
・ウィキペディア「小説神髄」 https://ja.wikipedia.org/wiki/小説神髄
・ウィキペディア「浮雲 (二葉亭四迷の小説)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/浮雲_(二葉亭四迷の小説)
・ウィキペディア「言文一致」 https://ja.wikipedia.org/wiki/言文一致
・コトバンク「言文一致」 https://kotobank.jp/word/言文一致
・ウィキペディア「硯友社」 https://ja.wikipedia.org/wiki/硯友社
・ウィキペディア「金色夜叉」 https://ja.wikipedia.org/wiki/金色夜叉
・ウィキペディア「樋口一葉」 https://ja.wikipedia.org/wiki/樋口一葉
・ウィキペディア「正岡子規」 https://ja.wikipedia.org/wiki/正岡子規
・ウィキペディア「みだれ髪」 https://ja.wikipedia.org/wiki/みだれ髪
・ウィキペディア「舞姫 (森鴎外)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/舞姫_(森鴎外)
・ウィキペディア「森鷗外」 https://ja.wikipedia.org/wiki/森鷗外
・ウィキペディア「夏目漱石」 https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石
・ウィキペディア「破戒 (小説)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/破戒_(小説)
・ウィキペディア「蒲団 (小説)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/蒲団_(小説)
・ウィキペディア「私小説」 https://ja.wikipedia.org/wiki/私小説
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが文学QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。