No.10新着 純文学をめぐる論争(1960年代〜2000年代) 「純文学は終わったのか」と文芸誌の役割
1961年、平野謙が「純文学という概念は歴史的なものにすぎない」と書いたことから純文学論争が起きた。論争は形を変えて1970年代、1990年代末〜2000年代にもくり返され、私小説の伝統や「売れない文学の価値」が問われた。純文学の作品を最初に載せる文芸誌は、部数が細るなかで誌面を作り変えている。
本文と出典
あらまし
「純文学とは何か」は、日本の文壇で何度も蒸し返されてきた問いである。きっかけは毎回ちがう。1960年代は社会派推理小説など中間小説の勢い、1990年代末からは「売れない文学に価値はあるか」という市場の問いだった。論争の土台には、純文学の中心は私小説だという大正以来の考え方と、純文学を世に出す場である文芸誌の存在がある。
主なできごと
・1907年 田山花袋『蒲団』。私小説の始まりとする説が有力
・1925年 久米正雄が私小説と心境小説を論じ、純文学と私小説を同一視する見方が出る
・1935年 小林秀雄『私小説論』、横光利一『純粋小説論』
・1961年1月 大岡昇平が井上靖『蒼き狼』を批判(論争の前史とする見方がある)
・1961年9月 平野謙が『朝日新聞』に『群像』創刊15周年に寄せた小文を発表。純文学論争の発端とされる
・1961年11月 伊藤整が『群像』に「『純』文学は存在し得るか」を発表
・1961年 新潮社が「純文学書下ろし特別作品」の刊行を始める
・1974年 江藤淳・平岡篤頼らの「フォニー論争」
・2002年 笙野頼子と大塚英志が『群像』誌上で応酬
・2004年 柄谷行人「近代文学の終り」が『早稲田文学』5月号に載る
・2019〜2020年 『文藝』(2019年夏季号)、『群像』(2020年1月号)が誌面を大きく作り変える
私小説という伝統
純文学論争を理解するには、まず私小説を押さえる必要がある。私小説は作者自身の体験や心境をほぼそのまま書く小説で、田山花袋『蒲団』(1907年)を始まりとする説が有力である。葛西善蔵、嘉村礒多、太宰治のような「破滅型」と、志賀直哉、瀧井孝作、尾崎一雄のような「調和型」に分けて語られることが多い。
世界大百科事典によれば、明治末の自然主義の前後に、知識人の読者が作者の心境や体験の告白に関心を持ち、それに応えた私小説が大正・昭和前期の文壇小説の主流になった。1925年に久米正雄が私小説と心境小説を論じて以降、純文学と私小説を同じものとみる見方が出たと日本大百科全書は書く。一方で批判も早くからあり、1935年には小林秀雄が『私小説論』を、横光利一が「純文学にして通俗小説」を目指す『純粋小説論』を書いた。戦後も中村光夫『風俗小説論』(1950年)などの批判が続いたが、21世紀に入っても西村賢太のような私小説作家が現れている。
1960年代の純文学論争
ウィキペディア「純文学論争」によれば、発端は1961年9月、平野謙が『群像』創刊15周年に寄せた小文を『朝日新聞』に載せたことである。平野は、松本清張や水上勉らの社会派推理小説などの中間小説が台頭するなかで、「純文学」という概念は歴史的なものにすぎないと述べた。
最初に反応したのは伊藤整で、同年11月に『群像』へ「『純』文学は存在し得るか」を書いた。高見順は平野を激しく批判した。当時「純文学」といえばまず私小説を指すと考えられており、高見の論には私小説を守る趣があった。福田恆存は、論争は同年1月に大岡昇平が井上靖『蒼き狼』を批判したときに始まっていたと見ている。日本大百科全書は、論争の期間を1961〜1962年とし、佐伯彰一らも加わったと書く。
同じ1961年、新潮社は「純文学書下ろし特別作品」の刊行を始め、安部公房『砂の女』、遠藤周作『沈黙』、有吉佐和子『恍惚の人』などを生んだ(日本大百科全書)。論争で概念が揺らいでいた時期に、出版社は「純文学」を看板にした叢書を立ち上げていたことになる。
「純文学は死んだ」系の議論
1970年代には、江藤淳が辻邦生や加賀乙彦らを批判した「フォニー論争」(1974年)があった。
1990年代末から2000年代初めには、大塚英志と笙野頼子の論争が起きた。大塚は売れない純文学は商品として劣るという立場をとり、笙野が抗議した。2002年には笙野が『群像』5月号の「ドン・キホーテの侃侃諤諤」で、文学を商品価値だけで見る見方を批判し、大塚は同誌6月号の「不良債権としての『文学』」で、文学は既得権に守られていると反論した。大塚はその後、既存の流通の外に文学の市場を作る試みとして文学フリマを主催した。笙野は2005年に論争の経過を『徹底抗戦!文士の森』にまとめている。笙野は、批判者のいう純文学が実質的に男性作家の作品を指している点も問題にした。
2004年には柄谷行人が「近代文学の終り」を『早稲田文学』に発表し、同誌はその号から2005年の休刊まで「近代文学の終わり」を特集名に掲げた。柄谷は若い書き手に、「文学」を続ける必要はなく、近代文学と同じ意義を違う形で実現するよう求めたとされる。
文芸誌の役割と部数
純文学の作品は、多くの場合まず文芸誌に載る。主な5誌の創刊は『新潮』(新潮社、1904年)、『文學界』(文藝春秋、1933年)、『文藝』(河出書房新社、1933年)、『群像』(講談社、1946年)、『すばる』(集英社、1970年)である。芥川賞の対象が雑誌掲載作であるため、文芸誌は賞の入り口にもなっている。2026年7月の第175回芥川賞を受けた小砂川チト「ゾンビ回収婦」も『群像』5月号の掲載作だった。
部数については、ブリタニカ国際大百科事典が『群像』『文学界』『新潮』などの部数低迷に触れている。最新の実数を日本雑誌協会の印刷証明付き部数の検索ページで探したが、公表対象(2026年4〜6月・第73回公表分・240誌)の中で5誌の数字は確かめられなかった。確認できた範囲では、文芸誌の部数は公表されていないことが多い。
部数が細るなかで、誌面を作り変える動きがある。『文藝』は2019年夏季号からテーマ型の特集を復活させ、秋季号の「韓国・フェミニズム・日本」は創刊号以来86年ぶりの3刷になった。『群像』は2020年1月号から「文」×「論」を掲げ、ルポやノンフィクション、批評を増やした総合誌型に変わった。
評価の分かれる点
純文学論争に勝ち負けはついていない。純文学は歴史的な概念にすぎないという平野の見方と、純文学は存在しうるという立場は、今も並び立っている。売れることを文学の価値の物差しにするかどうかも、大塚と笙野の論争のとおり意見が割れる。文芸誌の総売上はそれほど変わっていないという意見もあるとブリタニカは書いており、「衰退」をどう測るかにも幅がある。
くらさんの考察
論争の歴史をたどると、「純文学は終わった」という宣言は1961年、2002年、2004年とくり返されているのに、文芸誌も芥川賞も続いている。終わったのは、私小説を中心に据えた特定の「純文学」像であって、文芸誌という場そのものではないと考えられる。『文藝』や『群像』が批評や社会の話題を取り込んで売れ行きを伸ばした例は、その場が中身を入れ替えながら生き延びていることを示しているのだろう。
ジージへの問いかけ
・ジージは私小説(作者が自分のことを書く小説)を読んで、心を動かされた経験がありますか。それとも作り話の方が好きでしょうか。
・「売れない小説には価値がない」という意見に、ジージは賛成ですか、反対ですか。
・文芸誌を書店で手に取ったことはありますか。雑誌で小説を読む習慣は、いつごろまであったでしょうか。
出典
・ウィキペディア「純文学論争」 https://ja.wikipedia.org/wiki/純文学論争
・ウィキペディア「純文学」 https://ja.wikipedia.org/wiki/純文学
・ウィキペディア「私小説」 https://ja.wikipedia.org/wiki/私小説
・ウィキペディア「柄谷行人」 https://ja.wikipedia.org/wiki/柄谷行人
・リアルサウンド ブック「純文学雑誌は転換期を迎えているーー『文藝』リニューアル成功が浮き彫りにした重い課題」(2020年1月3日) https://realsound.jp/book/2020/01/post-477059.html
・リアルサウンド ブック「『群像』編集長・戸井武史が語る、文芸誌と社会」(2020年9月8日) https://realsound.jp/book/2020/09/post-615358.html
・日本雑誌協会「印刷証明付き部数」 https://www.j-magazine.or.jp/user/printed2/index
・秋田魁新報「芥川賞に小砂川チトさん 直木賞は朝倉かすみさん」 https://www.sakigake.jp/news/article/20260715CO0136/
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが文学QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。