No.207新着 鴨長明と『方丈記』(1155年ごろ〜1216年) 跡を継げなかった神職の子が、一丈四方の庵で都の災厄を書いた
鴨長明は下鴨神社の神職の家に生まれたが、父を早く亡くし、50歳ごろに禰宜になる道を一族の反対で断たれて出家した。日野の山中に一丈四方の庵を結び、1212年に『方丈記』を書いた。若いころに見た五つの災厄の記録と庵の暮らしを並べ、最後にその暮らしへの執着を自ら問うて終わるこの作品は、震災やコロナ禍のように社会が揺れるたびに読み直されてきた。
本文と出典
あらまし
『方丈記』は、鴨長明が晩年に京都の南東、日野の山中に結んだ小さな庵で書いた随筆である。末尾に建暦2年(1212年)と記され、この年の3月末に書き終えたとされる。題は庵の広さ(一丈四方、約3メートル四方)から来ている。前半で都を襲った五つの災厄を、後半で庵の暮らしを書き、最後にその暮らしに執着する自分を問い直して終わる。下鴨神社の神職の家に生まれながら跡を継げなかった男が、出世の道を外れたあとに書いた作品である。
主なできごと
・1155年ごろ 下鴨神社の禰宜(神職の上位の役)鴨長継の次男として生まれる(1153年ごろとする辞典もある)
・1161年 従五位下の位を受ける
・1173年ごろ 父が30代半ばで亡くなり、後ろ盾を失う
・1181年 家集『鴨長明集』をまとめる
・1201年 後鳥羽院が置いた和歌所の寄人(和歌の撰集にあたる職員)に選ばれる
・1204年 河合社の禰宜に就く話が一族の鴨祐兼の反対で実現せず、出家する。法名は蓮胤
・1208年ごろ 大原での数年の暮らしを経て、日野に方丈の庵を結ぶ
・1211年 飛鳥井雅経とともに鎌倉へ下り、源実朝に会う。このころ歌論書『無名抄』を書く
・1212年 『方丈記』を書く
・1214年ごろ 仏教説話集『発心集』がまとまる(1215年ごろとする辞典もある)
・1216年 閏6月に亡くなる(8日とする辞典が多い)
神職の家の次男として
長明の家は、下鴨神社(賀茂御祖神社)の神職を代々務めた鴨氏である。父の長継は河合社の禰宜を経て下鴨社の正禰宜惣官まで務め、長明も幼いうちに従五位下の位を得た。ところが父は35歳ほどで亡くなり、長明は20歳前後で後ろ盾を失った。日本大百科全書は、このときの長明を「みなしご」になったと書く。神職の家では一族の中の力関係が役の行方を左右し、その支えを長明は若くして失ったことになる。
歌と琵琶の前半生
神職の道が開けないあいだ、長明は和歌と音楽に打ち込んだ。和歌は俊恵が主宰する歌林苑で学び、琵琶は中原有安に習った。30代で『千載和歌集』に1首が入り(作者名を伏せた「よみ人しらず」の扱い)、勅撰集に歌の載る歌人になった。1200年には後鳥羽院の百首歌に加わり、翌1201年に院が和歌所を置くと、その寄人に選ばれた。のちの『新古今和歌集』には長明の歌が10首入っている。
出家と日野の庵
転機は1204年に来た。後鳥羽院は長明を河合社の禰宜に就けようとしたが、同族の鴨祐兼が反対し、話は実現しなかった。長明はまもなく出家して蓮胤と名のる。50歳ごろのことである。出家した寺を近江の大岡寺とする資料もある。大原で5年ほど過ごしたのち、1208年ごろに日野へ移り、法界寺に近い山中に方丈の庵を結んだ。庵の跡は京都市伏見区醍醐日野の山中にあり、碑が立っている。
出家したあとも、長明は世間と縁を切ったわけではない。1211年には飛鳥井雅経とともに鎌倉へ下り、3代将軍の源実朝に会った。ウィキペディアは、実朝の和歌の師として推されたが受け入れられなかったと書く。『方丈記』を書いたのは、その翌年である。
方丈記の組み立て
冒頭は、川の水も水面の泡もとどまることがない、という無常の話から始まる。書き出しの「ゆく河の流れは絶えずして」は教科書でよく知られている。人も住まいもこれと同じだという見通しを最初に示し、それを確かめる例として、長明が20代から30歳ごろに都で見た五つの災厄を並べる。安元の大火(1177年)、治承の辻風(竜巻、1180年)、福原遷都(1180年)、養和の飢饉(1181〜82年)、元暦の大地震(1185年)である。
五つのうち、遷都だけは天災ではなく、都を移すという政治の決定が招いた混乱である。飢饉の段では、仁和寺の僧隆暁が死者の額に「阿」の字を書いて回り、養和2年の4月と5月だけで左京に4万2300余りを数えた、と記す。地震の段では、山が崩れて川を埋め、海が傾いて陸に入ったと書く。この「海」を琵琶湖ではなく津波と読む説もある。
後半は庵の暮らしである。庵は一丈四方、高さ7尺の小さな建物で、木組みに屋根を載せただけの簡単な作りだったとされる。大きな家を建てても災厄で失うのだから、身の丈に合った小屋で暮らすほうが心が安らぐ、というのが長明の言い分である。ところが最後に、その庵を愛する気持ちも仏の道の妨げではないかと自分に問い、答えを出さないまま「不請の阿弥陀仏」を唱えて筆を置く。
ほかの著作と三大随筆
『無名抄』は1211年以後に書かれた歌論書、『発心集』は仏の道を求める心を起こした人々の話を集めた仏教説話集である。『方丈記』の文体は、漢文を読み下す調子に仮名を交えた和漢混淆文で、その完成した形と評価される。慶滋保胤の『池亭記』(982年)にならったとされ、日本大百科全書は『平家物語』をはじめ後の中世文学に大きな影響を与えたと書く。いまは『枕草子』『徒然草』と並べて三大随筆と呼ばれることが多い。
評価の分かれる点
現存最古の写本である大福光寺本について、日本大百科全書は長明の自筆かといわれる写本とし、山川日本史小辞典は自筆とも考えられたが現在は否定的だとする。また『方丈記』には、五つの災厄の段を持つ広本と、それを欠く略本がある。略本を後の人の改作とみる通説に対し、略本を草稿、広本を書き直しとみる考えもあり、略本が長明の作かどうかは定まっていない。生年も1155年ごろとする辞典が多いが、1153年ごろとするものもある。
くらさんの考察
『方丈記』の災厄の段は、書かれた時点で27年から35年前の出来事である。長明は災厄をその場で書き留めたのではなく、出世の道を断たれ、庵に落ち着いてから振り返って書いた。災厄の記録は、大きな家や地位にこだわっても失うときは失う、という後半の主張を支える証拠として置かれていると考えられる。その主張を最後に自分で疑ってみせるところに、身の上話で終わらない厚みがある。
今この本が読まれる理由も、そこにあるとくらさんは考える。養老孟司と平野啓一郎の対談記事は、この作品が戦後、東日本大震災の後、コロナ禍と、社会が不安定になるたびにブームになってきたと紹介している。ドイツでも震災の年の2011年にドイツ語訳が再出版され、ニッポンドットコムのコラムはそれに特別な意味があると書いた。災害の記録としての具体さと、そのあとどう暮らすかの迷いが一冊に同居しているため、読む人がそれぞれの時代の不安を重ねやすいのだと考えられる。
ジージへの問いかけ
・長明が禰宜の役を継げていたら、『方丈記』は書かれたと思いますか。
・庵の暮らしを愛することさえ迷いだと書いた最後の自問を、ジージは潔いと読みますか、それとも答えから逃げたと読みますか。
・ジージが見てきた災害(阪神淡路大震災や東日本大震災など)と重ねて読むと、五つの災厄の段はどう感じられるでしょうか。
出典
・ウィキペディア「鴨長明」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鴨長明
・ウィキペディア「方丈記」 https://ja.wikipedia.org/wiki/方丈記
・コトバンク「鴨長明」(日本大百科全書、世界大百科事典、ブリタニカ国際大百科事典、山川 日本史小辞典、精選版 日本国語大辞典ほか) https://kotobank.jp/word/%E9%B4%A8%E9%95%B7%E6%98%8E
・コトバンク「方丈記」(日本大百科全書、世界大百科事典、山川 日本史小辞典ほか) https://kotobank.jp/word/方丈記
・tabi-mag.jp(旅行情報サイト)「鴨長明の方丈庵(復元)」 https://tabi-mag.jp/ky0636/
・文藝春秋「『方丈記』一人滅びゆくこと」(養老孟司・平野啓一郎、2022年9月17日) https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h4597
ニッポンドットコム「いくつもの『方丈記』『3.11』がドイツに与えた文化的、哲学的衝撃」(2012年) https://www.nippon.com/ja/column/g00046/
動画
・放送大学「『方丈記』と『徒然草』('18)」(テレビ科目紹介)(放送大学YouTubeチャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=WYJDbKvoHqw
・ゆく河の流れ【古典探究】教科書の解説〈方丈記〉鴨長明(岡崎健太のOK塾)https://www.youtube.com/watch?v=Mr_VZKK_rmc
関連動画
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