ジージとくらさんの文学談義2026年10月29日
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No.219新着 芥川龍之介(1892〜1927年) 短編に歴史と自分を溶かし、35歳で亡くなった作家

芥川龍之介は1892年に東京で生まれ、東京帝国大学在学中に発表した『鼻』が夏目漱石に激賞されて世に出た。古い説話や歴史に材を取った短編で知られ、1927年7月24日に服毒自殺した。親友の菊池寛が没後8年の1935年に、その名を冠した芥川賞を創設した。

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登録日時
2026年10月29日 17:06
出典を確かめた日
2026年10月29日
分野
作家と作品
立場
事実・データ
タグ
作家新着小説新着文学賞新着
作家・作品
芥川龍之介、羅生門、鼻、地獄変、藪の中、河童、歯車
資料の種類
事典・概説
年代
1892〜1927年

本文と出典

あらまし

芥川龍之介は、1892年3月1日に東京の京橋区(現在の中央区)で生まれ、1927年7月24日に東京の田端の自宅で亡くなった。年齢は満35歳である(資料によっては数え年で享年36と書く)。長編はなく、仕事の中心は短編だった。古い説話や王朝時代、キリシタン、江戸、明治の開化期と、さまざまな時代の資料を材料にし、作品ごとに文体を変えた。青空文庫の作家紹介は、東大在学中に同人雑誌『新思潮』へ載せた『鼻』を夏目漱石が激賞したことで、文壇で活躍するようになったと記す。
作家としての活動は、1915年の『羅生門』から数えても12年ほどにすぎない。その短い期間に、のちの教科書や文庫に残る作品の多くを書いた。

主なできごと

・1892年 東京市京橋区に生まれる(3月1日)。生後まもなく母が精神を病み、母方の芥川家に預けられる
・1904年 芥川道章の正式な養子となる
・1910年 第一高等学校に入学する(9月)
・1913年 東京帝国大学の英文学科に入る
・1915年 『羅生門』を『帝国文学』に発表する(10月)
・1916年 『鼻』を第四次『新思潮』の創刊号に発表する(2月)。『芋粥』も同年。東京帝国大学を卒業し、12月に海軍機関学校の嘱託教官となる
・1918年 『地獄変』『蜘蛛の糸』『奉教人の死』を発表する
・1919年 3月に海軍機関学校を辞め、大阪毎日新聞社に入る。同月に塚本文と結婚する
・1921年 3月から7月まで、新聞社の海外視察員として中国を訪れる
・1922年 『藪の中』『トロッコ』を発表する
・1927年 『河童』『歯車』『或阿呆の一生』を発表する。7月24日に亡くなる
・1935年 芥川賞が創設される

くわしく

出発点:『鼻』まで

実の母は、龍之介が生まれて半年ほどで精神に異常をきたした。龍之介は母方の芥川家に預けられ、11歳のときに母が亡くなって、伯父の芥川道章の養子になった。ここまでの家族の事情は、のちの作品を読む手がかりとして語られることが多い。ただし、作品と生い立ちの結びつけ方は読み手によって違い、断定できる部分ではない。
『鼻』の題材は、『今昔物語集』と『宇治拾遺物語』にある、鼻の長い僧の話である。古い説話の骨組みに近代的な心理の読みを重ねるやり方は、初期の代表的な型になった。『羅生門』も王朝時代を舞台にした作品である。

短編の幅と、作風の変化

1918年の『地獄変』は王朝物、『奉教人の死』はキリシタン物にあたる。1922年の『藪の中』は、ひとつの出来事を複数の語り手が食い違って語る作品である。こうして時代も語り口も変えた短編を次々と発表し、新しい形を試し続けた作家と紹介される。
1919年に大阪毎日新聞社の社員になったのは、当時同社にいた薄田泣菫の招きによる。1921年の中国訪問は、この新聞社の海外視察員としての旅だった。

最晩年

晩年の作品は、歴史に材を取る型から離れ、自分の身辺を書く方向へ寄った。1927年の『河童』は、河童の国を舞台に人間社会を風刺する小説で、最晩年の代表作とされる。同年に『歯車』(遺作とされる)と『或阿呆の一生』も書かれた。
1927年7月24日未明、自宅で服毒自殺した。枕元には家族や友人にあてた4通の遺書と、「或旧友へ送る手記」と題した原稿が残されていた。手記には「僕の場合は唯ぼんやりした不安である」という一節があり、当時の青年や知識人は、この言葉を「不安な時代」の象徴として受け止めたとされる。用いた薬は、睡眠薬とする記述が一般的だが、青酸カリとする説もある。

芥川賞との関係

芥川賞は1935年に、直木三十五賞(直木賞)と同時に創設された。創設者は菊池寛である。菊池は芥川の一高以来の友人で、芥川の死から8年後に、その業績を記念して賞に名を付けた。対象は、新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された純文学の短編で、無名または新進の作家とされる。第1回(1935年上半期)の受賞作は、石川達三の『蒼氓』である。主催は日本文学振興会で、確認できた範囲の直近では、2026年7月15日の選考会(第175回)が小砂川チトの「ゾンビ回収婦」を授賞作に決めている。
芥川本人は賞を受ける側にも選ぶ側にもならなかった。賞の名は、没後の友人が付けたものである。

評価の分かれる点

同時代の評価は一枚岩ではなかった。初期の作品は日夏耿之介が高く評価した。一方、晩年は文壇の別の側から批判を受けている。プロレタリア文学の側からは、ブルジョワ作家と攻撃されたという。
1927年には谷崎潤一郎と、小説に「話」の面白さが要るかどうかをめぐって論争した。谷崎が物語の筋の面白さを重んじたのに対し、芥川は『文芸的な、余りに文芸的な』で反論し、志賀直哉を「小説の神様」と呼んで、筋らしい筋のない小説を肯定した。
自殺の理由についても、青空文庫の紹介は「体力の衰えと漠然とした不安」とまとめるが、これは一つの要約であり、原因を一つに決めることはできない。

くらさんの考察

芥川の仕事は、「ほとんど短編で、材料の時代が広い」という形で見ると捉えやすいと考えられる。『鼻』『羅生門』『地獄変』『藪の中』は、いずれも古い話や歴史上の設定を借りながら、人の心の動きを描いている。借り物の枠を使うことで、短い分量でも一つの状況を詰め込めたのではないかと考えられる。
菊池寛の記事で見たとおり、菊池は書き手を食べさせる仕組みをつくる人だった。芥川賞は、その菊池が亡き友の名を新人の短編に結びつけたものといえる。芥川自身の仕事が短編だったことと、賞が短編を対象にしたことの間に関係があるかは、確かめられていない。
今読む意味は、数十ページで一つの作品が完結する点にあると考えられる。『羅生門』『鼻』『蜘蛛の糸』『地獄変』『河童』『歯車』は青空文庫に公開されており、費用をかけずに、初期から晩年までの変化を作品の順に追える。

ジージへの問いかけ

・古い説話を材料にして書く手法は、現代の作家がやる「昔話の語り直し」と、どこが違うと思いますか。
・賞の名に亡くなった作家の名前を付けることは、その作家の読まれ方に影響すると思いますか。
・晩年に書いた「ぼんやりした不安」という言葉を、作家個人の言葉として読むか、時代の言葉として読むか、どちらがしっくりきますか。

出典

・青空文庫 芥川龍之介(作家紹介と公開作品の一覧) https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html
・ウィキペディア 芥川龍之介 https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介
・ウィキペディア 鼻 (芥川龍之介) https://ja.wikipedia.org/wiki/鼻_(芥川龍之介)
・ウィキペディア 芥川龍之介賞 https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介賞
・文春オンライン 7月24日は芥川龍之介が亡くなった日です(2017年7月24日) https://bunshun.jp/articles/-/3444
・日本文学振興会 芥川賞(第175回の発表) https://bungakushinko.or.jp/award/akutagawa/

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