ジージとくらさんの文学談義2026年10月22日
文学しらべ
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No.6新着 大正から昭和戦前・戦中の文学(1910〜1945) 理想・技巧・階級、そして戦争

大正の文学は、学習院出身の白樺派が理想主義を掲げ、芥川龍之介や谷崎潤一郎が技巧を凝らした作品で読者をつかんだ。昭和に入ると新感覚派とプロレタリア文学が並び立つ一方、円本や雑誌『キング』で本と雑誌が大衆のものになった。戦争が深まると弾圧と統制で書けることが狭まり、文学者は国策に組み込まれていった。

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出典を確かめた日
2026年10月22日
分野
近代(1868〜1945)
立場
くらさんの考察
タグ
小説評論作家雑誌出版社ミステリー・娯楽文学賞数字・統計
作家・作品
武者小路実篤、芥川龍之介、谷崎潤一郎、川端康成、小林多喜二、太宰治
資料の種類
事典・概説
年代
1910〜1945年

本文と出典

あらまし

明治の末に広がった自然主義に代わり、1910年代の文学の中心になったのは雑誌『白樺』に集まった若者たちだった。人間の生命を肯定する理想主義を掲げ、トルストイや西洋美術から強い影響を受けた。同じころ、芥川龍之介は古典に材を取った短編で、谷崎潤一郎は美と官能の世界で、物語の技巧を磨いた。
1923年の関東大震災のあと、文学は二つの方向に分かれる。一つは表現の新しさを求めた新感覚派、もう一つは労働者の現実を描き社会を変えようとしたプロレタリア文学である。同じ時期、1冊1円の全集「円本」や100万部を超えた雑誌『キング』によって、読書は都市の知識人だけのものではなくなった。1930年代に入ると弾圧と戦争が文学を締めつけ、1942年には文学者を国策に協力させる日本文学報国会ができた。

主なできごと

・1910年 雑誌『白樺』創刊。谷崎潤一郎『刺青』
・1915年 芥川龍之介『羅生門』(『帝国文学』)
・1916年 芥川『鼻』を漱石が称賛
・1918年 武者小路実篤らが宮崎県に「新しき村」をつくる
・1923年 関東大震災。谷崎が関西へ移る
・1924年 『文芸戦線』創刊。『文藝時代』創刊(新感覚派)。講談社の『キング』創刊(1925年1月号から)
・1926年 改造社『現代日本文学全集』で円本ブームが始まる
・1927年 芥川龍之介が「ぼんやりした不安」を書き残して自殺。岩波文庫創刊
・1928年 ナップ結成、『戦旗』が中心誌に
・1929年 小林多喜二『蟹工船』(『戦旗』)
・1933年 小林多喜二が築地警察署で死去。谷崎『春琴抄』
・1934年 ナルプ解散、プロレタリア文学運動が衰える
・1935年 第1回芥川賞・直木賞。太宰治『逆行』が芥川賞候補で落選
・1938年 内閣情報部の依頼で作家が漢口攻略戦に従軍(ペン部隊)
・1942年 日本文学報国会設立(会長・徳富蘇峰)
・1943年 谷崎『細雪』の『中央公論』連載が軍により止められる。『キング』は敵性語として『富士』に改題

理想と技巧の大正

白樺派の同人の多くは学習院出身の上流階級で、武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎らの作家と、柳宗悦らの美術家がいた。武者小路は1918年、理想の共同体として宮崎県に「新しき村」をつくった(1939年に一部が埼玉県毛呂山町へ移った)。志賀直哉は、語り手の心の動きを描く「心境小説」の代表とされる。
芥川龍之介は、平安時代の説話などを素材に、短く引き締まった短編を書いた。『鼻』が漱石に認められて世に出たが、1927年、35歳で睡眠薬を飲んで命を絶った。友人の菊池寛が、その死の8年後に芥川賞をつくった。谷崎潤一郎は震災後に関西に移り、『痴人の愛』『春琴抄』を書いた。

新感覚派とプロレタリア文学

1924年創刊の『文藝時代』に集まった横光利一・川端康成らを、評論家の千葉亀雄は「新感覚派」と名づけた。ヨーロッパの前衛芸術の影響を受け、比喩や擬人法で感覚を直接ことばにしようとした。
プロレタリア文学は、虐げられた労働者の現実を描く文学である。小林多喜二の『蟹工船』は、カニ漁と缶詰加工をする船の過酷な労働を描いた。多喜二は1933年に逮捕されたその日に築地警察署で死んだ。警察は「心臓麻痺」と発表したが、遺体を見た友人たちは拷問の跡を証言している。治安維持法による弾圧で多くの共産党員が思想を捨てる「転向」をし、運動は1934年に崩れた。

本と雑誌が大衆のものに

1926年末、関東大震災で経営が苦しかった改造社は、1冊1円・全巻予約制の『現代日本文学全集』を出した。予約は約23万人に上り、新潮社・春陽堂・平凡社なども次々と全集を出した。作家の収入が増え、「円本成金」と呼ばれる人も出た。講談社の『キング』は日本の雑誌で初めて100万部を超え、1928年11月の特別号は約150万部に達した。

戦時下の文学

1938年、内閣情報部は作家を戦地に送り、見聞記を書かせた(ペン部隊)。1942年には情報局の指導で日本文学報国会がつくられ、国策を広めることを目的に掲げた。谷崎の『細雪』は1943年に連載を止められ、谷崎は書き続けて1944年に上巻を私家版で出した。太宰治は戦争中も『走れメロス』(1940年)、『津軽』(1944年)、『お伽草紙』(1945年)を書き続けた。

評価の分かれる点

戦時中に文学者が国策に協力したことをどう評価するかは、戦後に大きな議論になり、今も一つの答えにはまとまっていない。また、芥川の「ぼんやりした不安」という言葉だけで死の理由を説明できるかについては、ウィキペディアも慎重な書き方をしている。太宰が第1回芥川賞で落ちたとき、選考委員の川端康成は太宰の私生活に触れて評し、太宰は雑誌で反論した。この因縁をどう読むかも人によって違う。

くらさんの考察

大正から戦前までの約30年で、文学は「少数の読者のための芸術」から「百万人が買う商品」へと広がったと考えられる。円本と『キング』が読者を増やしたちょうどその時期に、国家が言論を締めつけたことは、読者が多いほど文学が統制の対象として重く見られたことを示しているのではないか。

ジージへの問いかけ

・円本ブームのように、安くて大量の本が出ることは、文学を豊かにしたと思いますか、それとも軽くしたと思いますか。
・戦争中、多くの作家が国策に協力しました。書くことで食べていく人に、拒む道はどれほどあったと思いますか。
・芥川・太宰・川端と、自ら命を絶った作家が続きます。作品と作家の死を結びつけて読むことを、ジージはどう考えますか。

出典

・ウィキペディア「白樺派」 https://ja.wikipedia.org/wiki/白樺派
・ウィキペディア「新しき村」 https://ja.wikipedia.org/wiki/新しき村
・ウィキペディア「芥川龍之介」 https://ja.wikipedia.org/wiki/芥川龍之介
・ウィキペディア「谷崎潤一郎」 https://ja.wikipedia.org/wiki/谷崎潤一郎
・ウィキペディア「新感覚派」 https://ja.wikipedia.org/wiki/新感覚派
・ウィキペディア「プロレタリア文学」 https://ja.wikipedia.org/wiki/プロレタリア文学
・ウィキペディア「小林多喜二」 https://ja.wikipedia.org/wiki/小林多喜二
・ウィキペディア「円本」 https://ja.wikipedia.org/wiki/円本
・ウィキペディア「キング (雑誌)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/キング_(雑誌)
・ウィキペディア「日本文学報国会」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本文学報国会
・ウィキペディア「太宰治」 https://ja.wikipedia.org/wiki/太宰治
・ウィキペディア「私小説」 https://ja.wikipedia.org/wiki/私小説

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