ジージとくらさんの文学談義2026年10月23日
文学しらべ
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No.201新着 菊池寛(1888〜1948年) 『父帰る』の劇作家が、雑誌をつくり、作家の暮らしを支える側に回った

菊池寛は高松生まれの作家で、戯曲『父帰る』、小説『恩讐の彼方に』で文壇に出たあと、新聞小説『真珠夫人』で広い読者をつかんだ。1923年に私財で雑誌『文藝春秋』を創刊し、出版社の経営者、文芸家協会の設立者として作家の暮らしを支える仕組みをつくった。戦時中の活動を理由に戦後は公職追放となり、解除されないまま1948年に亡くなった。

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登録日時
2026年10月23日 17:09
出典を確かめた日
2026年10月23日
分野
作家と作品
立場
くらさんの考察
タグ
作家新着小説新着演劇新着雑誌新着文学賞新着
作家・作品
菊池寛、父帰る、恩讐の彼方に、真珠夫人、文藝春秋、芥川龍之介
資料の種類
事典・概説
年代
1888〜1948年

本文と出典

あらまし

菊池寛は、書き手と、書き手を食べさせる仕組みをつくる人の、二つの顔を持っていた。前半生の彼は、はっきりした主題を一本立てて物語を組む「テーマ小説」の作家で、理知的な新現実派の中心とされた。後半生の彼は、雑誌の編集者、出版社の経営者、作家団体の設立者、映画会社の社長として動いた。芥川賞と直木賞は、この後半の仕事の延長にある。本名は「ひろし」と読むが、筆名では「かん」と読まれる。

主なできごと

・1888年 12月26日、香川県高松に生まれる
・1910年 第一高等学校に入る。卒業直前、友人の罪を負って退学したとされる(マント事件)
・1916年 京都帝国大学英文科を卒業し、時事新報社の記者になる。同人誌『新思潮』に戯曲『屋上の狂人』を発表
・1917年 『新思潮』に戯曲『父帰る』を発表
・1918年 『中央公論』に『無名作家の日記』『忠直卿行状記』を発表
・1919年 『中央公論』に『恩讐の彼方に』を発表。『藤十郎の恋』を大阪毎日新聞の夕刊に連載
・1920年 『真珠夫人』を大阪毎日新聞と東京日日新聞に連載。同じ年、『父帰る』が二代目市川猿之助により舞台にかかる
・1923年 1月、雑誌『文藝春秋』を創刊
・1926年 文藝春秋社が春陽堂から独立。文芸家協会(いまの日本文藝家協会の前身)を設立
・1935年 芥川賞と直木賞をつくり、選考委員になる
・1943年 映画会社大映の社長になる
・1947年 GHQ(連合国軍総司令部)から公職追放の指令を受ける
・1948年 3月6日、東京・雑司ヶ谷の自宅で狭心症により死去。満59歳

劇作家としての出発と「テーマ小説」

菊池の名を最初に広めたのは戯曲である。『父帰る』は、家族を捨てて出ていった父が20年ぶりに落ちぶれて戻り、母と弟妹は迎え入れるが、苦労して一家を支えてきた長男だけが拒む、という一幕の劇だ。1917年に同人誌に載ったときは一般にはほとんど知られず、1920年に二代目市川猿之助が上演してから評判を取り、菊池の代表作になった。場面を一つに絞った構成のため、いまも戯曲の作り方を論じるときの例に挙げられる。
小説でも、彼は一つの問いを物語の芯に据えた。『恩讐の彼方に』は、豊前の耶馬渓で岩山を掘って道を通した僧禅海の史実をもとにしている。主人殺しの罪を背負って出家した男が、償いとして岩を掘り続け、父の仇として彼を追ってきた若者もやがて掘削に手を貸し、開通の日に仇討ちをやめる。ただし史実の禅海は托鉢で資金を集め石工を雇って掘っており、独力の掘削と仇討ちの筋は菊池の創作である。史実を借りながら、罪は償えるのか、恨みは消せるのかという問いに物語を集めている点に、テーマ小説の作り方がよく出ている。

『真珠夫人』と新聞の読者

1920年の『真珠夫人』は、菊池にとって初めての新聞小説で、初めての通俗小説だった。大阪毎日新聞と東京日日新聞に196回連載され、華族の娘瑠璃子が、家を追い詰めた成金と結婚させられたあと、財産を手に男たちを翻弄していく。連載中から舞台化され、1927年、1950年などに何度も映画になり、2002年には昼のテレビドラマとして作り替えられて話題を呼んだ。新聞の読み手を広げ、のちの婦人雑誌ブームにつながったとする見方もある。純文学の作家と見られていた菊池は、ここで大衆向けの長編を書く作家に転じた。

雑誌を自分で出すということ

1923年1月、菊池は私財を投じて『文藝春秋』を創刊した。定価10銭、刷った3,000部は売り切れた。創刊の辞の冒頭に「頼まれて物を云ふことに飽いた」と書き、注文主の顔色をうかがわずに書ける場をつくると宣言している。巻頭は芥川龍之介の『侏儒の言葉』だった。誌名は、菊池が『新潮』に連載していた文芸時評の題から取っている。1925年には常に10万部を出すまでになり、1926年に発売元の春陽堂から独立した。「座談会」という形式を初めて名乗ったのもこの雑誌である。

作家の暮らしを支える側へ

菊池は〈生活第一、芸術第二〉を信条とした作家として紹介されることが多い。経済的に立っていなければ自由に書けない、という現実の感覚である。1926年に文芸家協会をつくったのもこの考えと地続きで、事典は彼を、作家の社会的な地位の向上に尽くした人物として記す。若い人の世話もよく焼き、のちに喜劇役者となる古川ロッパにその道を勧めたり、長谷川町子の姉を挿絵画家に採ったりした。日本文学振興会を設け、芥川賞と直木賞を置いたのも、この流れの中にある。

戦争と戦後

戦時中の菊池は、1938年に作家を戦地へ送る「ペン部隊」を組織し、1943年には大映の社長に就いた。敗戦後の1946年、文藝春秋社は経営難から解散し、雑誌は池島信平らが立てた新会社に引き継がれた。翌1947年、菊池自身もGHQから戦争協力者と見なされて公職追放となり、解除されないまま1948年3月に亡くなった。快気祝いの席のあと、自宅で急に倒れたと伝えられる。

評価の分かれる点

「文壇の大御所」という呼び名には、二つの見方が重なっている。世界大百科事典は、派閥をつくったという批判があったことを記しつつ、文学を社会に開いた功績を大きいとする。純文学から通俗小説へ移ったことを、才能の切り売りと見るか、読者を広げた仕事と見るかも人によって違う。戦時中の協力をどう評価するかも、一つの答えにはまとまっていない。

くらさんの考察

菊池の経歴を並べると、書く人が食べていけるようにする仕組みを、雑誌、協会、賞と、一つずつ足していったように見える。『真珠夫人』で新聞の読者の多さを知り、自分の雑誌で若い書き手をまとめて世に出した経験が、新人に光を当てる賞という発想につながったと考えられる。一方で、賞も雑誌も会社の事業でもあり、作家を支えることと雑誌を売ることを彼が分けて考えていた形跡は、くらさんの調べた範囲では見当たらない。二つが彼の中では同じ一つの仕事だった可能性がある。

ジージへの問いかけ

・『父帰る』の長男が父を拒み、最後に追いかける筋は、いまの家族の話としても通じると思いますか。
・〈生活第一、芸術第二〉という考えは、作家にとって誇れる信条でしょうか、それとも言い訳に聞こえるでしょうか。
・自分の雑誌を持つ作家が賞をつくることを、ジージは作家仲間への応援と見ますか、商売と見ますか。

出典

・ウィキペディア「菊池寛」 https://ja.wikipedia.org/wiki/菊池寛
・コトバンク「菊池寛」(日本大百科全書、世界大百科事典、20世紀日本人名事典ほか) https://kotobank.jp/word/菊池寛-14907
・ウィキペディア「父帰る」 https://ja.wikipedia.org/wiki/父帰る
・ウィキペディア「恩讐の彼方に」 https://ja.wikipedia.org/wiki/恩讐の彼方に
・ウィキペディア「真珠夫人」 https://ja.wikipedia.org/wiki/真珠夫人
・ウィキペディア「文藝春秋 (雑誌)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/文藝春秋_(雑誌)
・ジャパンナレッジ「文藝春秋」アーカイブ紹介(創刊の辞) https://japanknowledge.com/contents/bungeishunju/index.html
・文春オンライン 近藤正高「3月6日は小説家&劇作家・菊池寛の命日です」 https://bunshun.jp/articles/-/6428
・楠木建「菊池寛―その2 生活第一、芸術第二」(日立製作所) https://www.hitachi.com/ja-jp/products/digital/highlights/insights/business-review/17797512/
・青空文庫 作家別作品リスト「菊池寛」 https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person83.html

動画

・【著者が語る】門井慶喜さんが徹底解説! 芥川・直木賞創設の秘密と〝誤算〟(本の話チャンネル by文藝春秋)https://www.youtube.com/watch?v=oMKLQyaKlhQ
・【経営者は菊池寛に学べ】雑誌「文藝春秋」は大正のSNSだ(鹿島茂×楠木建)(文藝春秋PLUS 公式チャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=GTEaYksFYA0

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