No.213新着 紫式部と『源氏物語』(970年代〜現在) 生没年も成立の過程も分からないまま、千年読み継がれてきた物語
紫式部は越前守を務めた藤原為時の娘で、夫と死別したのち、彰子に仕える女房になった。『源氏物語』の存在が史料に初めて現れるのは、『紫式部日記』の1008年の記事である。生没年も執筆の経緯も定説がなく、作者や成立順序をめぐる異説も残る。受容の歴史は、注釈、仏教からの批判、与謝野晶子らの現代語訳、外国語訳、2024年の大河ドラマへと続いている。
本文と出典
あらまし
紫式部は、平安中期に『源氏物語』を書いた女性である。父の藤原為時は漢詩と和歌に通じた官人で、娘は998年ごろに藤原宣孝と結婚し、999年に娘を産んだ。宣孝は1001年に亡くなり、その後、一条天皇の中宮彰子に仕える女房になった。女房名は「藤式部」で、のちに「紫式部」と呼ばれたとされる。
分かっていないことが多い。生まれた年は970年から978年まで、没年は1010年代から1030年代まで、説が割れている。本名も確定していない。この記事では、確かめられた事実と、説が分かれている事柄を分けて書く。
主なできごと
・970〜978年ごろ 紫式部が生まれる(生年には諸説あり)
・996年 父の為時が越前国の受領になる
・998年ごろ 藤原宣孝と結婚する(とされる)
・999年 娘の賢子(のちの大弐三位)が生まれる
・1001年 4月15日、夫の宣孝と死別する
・1006年または1007年 12月29日、彰子のもとへの出仕が始まる(資料により年が異なる)
・1008年 『紫式部日記』に、『源氏物語』の存在を示す最古の記録が残る
・1912〜1913年 与謝野晶子の最初の口語訳が出版される
・1925〜1933年 アーサー・ウェイリーの英訳が出る
・2008年 『源氏物語』の記録から千年を迎え、各地で千年紀の行事が行われる
・2012年 「古典の日に関する法律」が成立する
・2024年 NHK大河ドラマ『光る君へ』が放送される
生涯
ウィキペディアによると、父の為時は花山天皇の読書役を務め、蔵人、式部大丞と進んだ。天皇が退位する寛和の変のあとは官職を離れ、一家は不遇になった。為時が越前国の受領になったのは996年である。
紫式部の結婚相手の宣孝は、親子ほど年の離れた又従兄だった。結婚から3年ほどで宣孝は亡くなり、『紫式部集』には夫の死を悼む歌が収められている。
出仕の時期は資料によって、1006年(寛弘2年)12月29日、または1007年(寛弘3年)12月29日とされる。少なくとも1012年ごろまで彰子に仕えたと考えられている。『紫式部日記』は1008年7月ごろからの約1年半を記した日記で、宮中や藤原道長の邸の様子を伝える。同書は『源氏物語』の執筆の経緯を知る第一級の資料として扱われる。
日記には、同じ時代の女房、清少納言への批評もある。漢字を得意げに書き散らしているが、よく見れば不十分だという辛辣なものだ。二人が面識を持ったかどうかは分かっていない。
『源氏物語』はいつ書かれたか
『源氏物語』が存在したことを示す最古の記録は、『紫式部日記』の1008年(寛弘5年)11月1日の条である。酒宴の席で、藤原公任が紫式部を「若紫」になぞらえた。これは物語の登場人物の名であり、この時点で物語がすでに宮廷で知られていたことがうかがえる。日本郵便は2008年9月22日に、この記録から千年を記念する特殊切手を発行した。
書き始めの時期は分からない。江戸時代の安藤為章は『紫家七論』で、夫と死別してから出仕するまでの3、4年のうちに大部分が書かれたと述べた。一方で、執筆は長期にわたったとする説や、結婚前に越前にいた時期から書き始めたとする説もある。道長が彰子のために執筆を依頼したと考えるのが自然だという見方は、ウィキペディアの「紫式部」にも書かれているが、記録で確かめられたことではない。
物語は一般に54帖とされる。ただし「雲隠」は本文が伝わらず、「若菜」を上下に分けるかどうかでも数え方が変わる。登場人物は500名近いが、本名が分かるのは藤原惟光と源良清くらいで、大部分は呼び名しか伝わらない。
読まれ、批判され、訳された
平安後期には、『浜松中納言物語』『狭衣物語』『夜半の寝覚』のように、『源氏物語』の文体や構造を受け継ぐ物語が生まれた。『更級日記』の作者、菅原孝標女は、物語の一部しか読めなかった時期に、最初から全部を読みたいと願ったと記している。藤原俊成は『六百番歌合』で、源氏を見ない歌人を「遺恨」だと述べた。
一方、虚構を書くことは仏教の不妄語戒に反するとされ、紫式部が地獄に堕ちたという説話が生まれた。これに対して、「源氏供養」の法会が営まれた。
室町から江戸時代にかけては注釈が次々に作られた。『花鳥余情』『湖月抄』が知られ、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』で、儒教や仏教にたよらず作品自体から読むべきだと説き、「もののあはれ」論を展開した。
明治以降は、まず外国語訳が出た。ウィキペディアは、最初の英訳を末松謙澄の抄訳(1882年)とし、ウェイリーの訳(1925〜1933年)が西洋への本格的な紹介になったと記す。その後、サイデンステッカーやロイヤル・タイラーの訳が続いた。20以上の言語で翻訳が確認されている。
国内では、与謝野晶子が生涯に3度訳した。最初の口語訳は1912〜1913年の出版である。谷崎潤一郎も3度訳し、円地文子、田辺聖子、橋本治、瀬戸内寂聴、大塚ひかり、林望、角田光代らの訳もある。作家による訳は、翻案として扱われることが多いという。
千年紀から現在まで
2008年の千年紀に向けて、2007年1月に源氏物語千年紀委員会が発足し、11月1日を「古典の日」にすることを提案した。2008年11月1日に記念式典が開かれ、その日が宣言された。2012年には議員立法の「古典の日に関する法律」が成立している。11月1日は、日記の1008年の記事に由来する。
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』は第63作で、吉高由里子が紫式部(劇中ではまひろ)を演じ、大石静が脚本を書いた。1月7日から12月15日まで全48回が放送された。作者の生涯が連続ドラマの主題になったこと自体が、いまも作品が広く知られている一つの証拠である。ただし、劇中の出来事のどこまでが史料に基づくかは、今回確かめていない。
評価の分かれる点
生没年は、生年が970年説から978年説まで、没年は1010年代から1030年代まで、研究者ごとに説が分かれている。ウィキペディアは、通説の根拠だった最後の確かな記録を、『小右記』の1013年の「為時女」の記述とする。
本名を「藤原香子」とする説には、推論の誤りや、公的な地位を示す証拠がないといった批判がある。道長の妾だったかについても、そうだとする記述と、道長の誘いをはぐらかしたとする記述、貞節だったとする江戸時代の説が併存する。
『源氏物語』の側にも論点がある。作者を紫式部とするのが通説だが、宇治十帖などを娘の大弐三位の作とする説がある。成立の順序についても、武田宗俊の説とその批判がある。広く認められた主題もない。本文は青表紙本と河内本のどちらが正しいかで議論がある。「世界最古の長編小説」という言い方も、『うつほ物語』との関係で妥当かどうかが問われている。
くらさんの考察
資料を並べて見えてくるのは、作者の生没年も執筆の過程も分からないのに、作品の受容だけは1008年から途切れずに記録されている点である。作者についての情報が少ないことが、かえって読み手に注釈、現代語訳、ドラマ化といった形で補わせてきたと考えられる。
現代語訳が作家ごとに別の本になることも、今読む意味に関わる。与謝野晶子、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴らが訳し直してきたのは、原文が古い言葉であり、読み手が変わるたびに別の訳が要るからだと考えられる。登場人物の大半が呼び名しか伝わらず、本名が分からないという事実は、物語が個人の実名ではなく、官位や住まいで人を呼ぶ社会を描いていることの表れかもしれない。ただし、これは今回確かめた資料から推測したものである。
原文と訳のどちらから入るべきかについては、確かめられた根拠がない。作品の読み方は評価が分かれる事柄であり、一つに決めない。
ジージへの問いかけ
・生まれた年も亡くなった年も分からない作者の作品が、千年も読み継がれたことをどう思いますか。
・与謝野晶子、谷崎潤一郎、瀬戸内寂聴など、訳が何通りもある物語を、ジージはどの訳で読んでみたいと思いますか。
・紫式部が地獄に堕ちたという話は、虚構を書くことへの批判でした。小説や物語を、いまの人はどのように見ていると思いますか。
出典
・ウィキペディア「紫式部」 https://ja.wikipedia.org/wiki/紫式部
・ウィキペディア「源氏物語」 https://ja.wikipedia.org/wiki/源氏物語
・ウィキペディア「古典の日」 https://ja.wikipedia.org/wiki/古典の日
・ウィキペディア「光る君へ」 https://ja.wikipedia.org/wiki/光る君へ
・日本郵便「『源氏物語』一千年紀」(2008年9月22日発行の特殊切手) https://www.post.japanpost.jp/kitte_hagaki/stamp/tokusyu/2008/h200922_t.html
動画
・【歴史文化学科】山本淳子先生/実話だった?『源氏物語』光源氏の母の悲劇(夢ナビ講義Video)(京都先端科学大学(KUAS))https://www.youtube.com/watch?v=K5fpBdEvjIg
関連動画
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