ジージとくらさんの文学談義2026年10月28日
文学しらべ
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No.216新着 夏目漱石(1867〜1916年) 教師から新聞小説家になり、長編を書き継いだ作家

夏目漱石は1867年に江戸で生まれ、英語教師、英国留学を経て、1907年に教職を辞して朝日新聞社に入った作家である。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』から『こころ』『明暗』まで、新聞連載を軸に長編を書いた。同時代には森鷗外が評し、弟子の芥川龍之介らも育った。

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登録日時
2026年10月28日 17:06
出典を確かめた日
2026年10月28日
分野
作家と作品
立場
事実・データ
タグ
作家新着小説新着海外とのつながり新着
作家・作品
夏目漱石、吾輩は猫である、坊っちゃん、三四郎、それから、門、こころ、明暗
資料の種類
事典・概説
年代
1867〜1916年

本文と出典

あらまし

夏目漱石(本名は金之助)は、1867年2月9日に江戸の牛込(現在の東京都新宿区)で生まれ、1916年12月9日に東京の自宅で亡くなった。作家として知られるが、文筆だけで暮らした期間は短い。東京帝国大学の英文科を出て、愛媛・熊本で英語を教え、国の命令で英国へ留学し、帰国後に教壇に立ちながら小説を書き始めた。1907年に教職を辞して朝日新聞社に入り、以後は新聞に長編を連載する作家になった。亡くなったのは、最後の長編『明暗』の連載の途中である。

主なできごと

・1867年 江戸の牛込に生まれる
・1890年 帝国大学の英文科に入る(9月)
・1893年 帝国大学を卒業する(7月)
・1895年 愛媛県尋常中学校(松山)に赴任する(4月)
・1896年 熊本の第五高等学校の講師となり、7月に教授となる
・1900年 文部省から英国留学を命じられ、9月に日本を出発する
・1903年 1月20日に帰国。4月から第一高等学校と東京帝国大学の講師を務める
・1905年 『吾輩は猫である』を雑誌『ホトトギス』に発表し始める(1月)
・1906年 『坊っちゃん』を『ホトトギス』に発表する(4月)
・1907年 教職を辞し、朝日新聞社に入る
・1908〜1910年 『三四郎』(1908年)、『それから』(1909年)、『門』(1910年)を朝日新聞に連載する
・1910年 療養先の修善寺で大量に吐血し、危篤に陥る(8月24日の夜)
・1911年 文部省が贈ろうとした博士の学位を辞退する(2月21日)
・1914年 『こころ』を朝日新聞に連載する(4〜8月)
・1916年 『明暗』を朝日新聞に連載する(5〜12月)。未完のまま12月9日に没する

くわしく

留学まで

大学を出た漱石は、1895年から松山、熊本と地方の学校で教えた。1900年に文部省から英国留学を命じられ、同年9月に出発している。帰国は1903年1月20日で、資料によれば、留学期間が終わる前の呼び戻しだった。帰国後は第一高等学校と東京帝国大学で教え、のちに明治大学の講師も兼ねた。この教師の時期に、小説を書き始めている。

作家としての出発

『吾輩は猫である』は、1905年1月に『ホトトギス』に載り始めた。続いて1906年4月には『坊っちゃん』が同じ雑誌に出た。青空文庫の作家紹介によれば、帰国後は第一高等学校で教えながら作家活動を行い、1907年に教職を辞して朝日新聞社に入った。教職を離れて新聞社の専属になる道を選んだわけである。

朝日新聞時代

朝日新聞に入ってからは、連載のたびに新作を書く暮らしになった。『三四郎』『それから』『門』は1908年から1910年にかけて続けて連載された。1910年8月には修善寺で大吐血し、一時は危篤になった。1914年には『こころ』を連載し、1916年に『明暗』を書き始めたが、12月に亡くなって未完に終わった。晩年の弟子たちの間では「則天去私」という言葉が語られたが、これは漱石自身が書いたものではなく、弟子が漱石の話を書き留めたものとされ、意味もはっきりしない。

弟子と社会的な位置

1906年10月ごろから、漱石の書斎には木曜日に人が集まるようになり、「木曜会」と呼ばれた。芥川龍之介は1915年12月にこの集まりに加わっている。1911年に博士号を辞退したことでも知られる。のちの紙幣では、1984年から2004年まで発行された千円札の肖像に使われた。

評価の分かれる点

没後の評価は一様ではない。1910年7月の『新潮』の談話で、森鷗外は漱石に二度ほど会ったと述べ、紳士であり作家としても力があると評した。鷗外の『青年』(1910年)には『三四郎』の影響があるという説がある。一方、1920〜30年代に哲学者の戸坂潤は「漱石文化」という言葉で、漱石が読書界で大きな位置を占めたことを語った。ただし、これらは評価の一部であり、個々の作品をどう読むかは今も読者や研究者の間で分かれている。「則天去私」を晩年の境地とみなす見方も、前述のとおり出典があいまいで、断定できない。

くらさんの考察

漱石の経歴は、同じ職業に長く留まらない動きに見える。教師から作家、さらに職業作家へと立場を変えており、それが書く題材の幅につながったと考えられる。『吾輩は猫である』から『こころ』まで題名を並べるだけでも、扱う題材の広さがうかがえる。
また、朝日新聞への入社によって、毎日の連載という形式で長い作品を書き継ぐ条件が整ったと考えられる。『明暗』が未完で終わったことも、その連載の形式と無関係ではないだろう。
今、漱石を読む意味の一つは、教師から作家へ移った人の仕事が、初期から晩年まで連載や発表の年とともに追えることにあると考えられる。『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こころ』は青空文庫に公開されており、費用をかけずに読み比べられる。

ジージへの問いかけ

・教師を辞めて新聞社に入った漱石の決断を、今ならどう受け止めると思いますか。
・『吾輩は猫である』と『こころ』のように作風が大きく違う作品を、同じ作家の仕事として読むと、何が見えてくると思いますか。
・弟子が書き留めた「則天去私」のように、本人が書いていない言葉を、作家の考えとして扱ってよいのでしょうか。

出典

・夏目漱石(Wikipedia)https://ja.wikipedia.org/wiki/夏目漱石
・夏目漱石(青空文庫 作家別作品リスト)https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person148.html

動画

・はじめての夏目漱石【これ1本で全てがわかる!】(【コックブン】文学チャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=15pKTevtPh0

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