No.222新着 川端康成(1899〜1972年) 肉親を次々に失った孤児が、日本人初のノーベル文学賞に至るまで
川端康成は1899年に大阪で生まれ、幼いうちに両親と祖母、姉を、15歳で祖父を失った。1924年に横光利一らと『文藝時代』を創刊して新感覚派と呼ばれ、1968年に日本人初のノーベル文学賞を受けた。1972年4月16日、逗子の仕事部屋でガス自殺と報じられる形で亡くなり、遺書はなかったとされる。
本文と出典
あらまし
川端康成は、1899年6月14日に大阪で生まれ、1972年4月16日に神奈川県逗子市で亡くなった。6月14日は戸籍上の日付で、6月11日とする資料もある。享年は72である。
仕事の幅は広い。若い時期は、同人誌『文藝時代』を拠点にした新感覚派の一人として知られた。その後、『伊豆の踊子』『雪国』のような叙情的な作品から、戦後の『千羽鶴』『山の音』『古都』まで書き継いだ。1968年にノーベル文学賞を受け、日本人で最初の受賞者になった。
この記事は、芥川賞や菊池寛の側からではなく、川端本人の道筋をたどる。確かめられた事実と、くらさんの推測は見出しを分けて書く。
主なできごと
・1899年 大阪に生まれる
・1901年 父が結核で亡くなる
・1902年 母が結核で亡くなる
・1906年 祖母が亡くなる
・1909年 姉が13歳で亡くなる
・1914年 祖父が亡くなり、身寄りのない孤児になる
・1917年 第一高等学校に入学する
・1918年 伊豆を一人で旅する(のちの『伊豆の踊子』の材料)
・1920年 東京帝国大学の英文学科に入る(1922年に国文学科へ移り、1924年に卒業)
・1921年 『招魂祭一景』で菊池寛に認められる
・1924年 横光利一らと『文藝時代』を創刊する
・1926年 『伊豆の踊子』を発表する
・1935年 『雪国』の連載が始まる(完結は1947〜48年。資料により異なる)
・1961年 文化勲章を受ける
・1968年 ノーベル文学賞を受ける(発表10月17日、授賞式12月10日、講演12月12日)
・1972年 4月16日に亡くなる
くわしく
孤児の境遇
父は医師だった。川端は早産で生まれ、父は1901年、母は1902年に、ともに結核で亡くなった。その後は祖父母に育てられたが、祖母が1906年、姉が1909年に世を去り、1914年に祖父が亡くなって、一人きりになった。ウィキペディアは、本人がこの境遇から「孤児根性」が強まったと振り返っていると記す。川端は10代半ばまでに、肉親をほとんど見送っていたことになる。
新感覚派と菊池寛
1917年に一高の英文科へ進み、1920年に東京帝国大学へ入った。東大在学中の短編『招魂祭一景』は菊池寛に評価され、菊池は生活面でも川端を支えた。
1924年、川端は横光利一らと同人誌『文藝時代』を創刊した。横光の『頭ならびに腹』をきっかけに、批評家の千葉亀雄が同人たちを「新感覚派」と呼び、この名が定着した。
伊豆と雪国
『伊豆の踊子』は、1918年の伊豆の一人旅の体験をもとにしている。1926年に『文藝時代』に載った。
『雪国』は、新潟の湯沢の温泉町を舞台にする長編で、1935年から雑誌に連載が始まった。ウィキペディアは1948年の完結とし、コトバンクは1935〜47年とするため、完結の年は確かめきれない。1937年には、この作品で文芸懇話会賞を受けた。つまり、完結する前に評価が定まりはじめていた。
戦後は、『千羽鶴』(1949〜51年)で1952年に日本芸術院賞を受け、『山の音』(1949〜54年)、『眠れる美女』(1960〜61年)、『古都』(1961〜62年)を書いた。
ノーベル文学賞
1968年10月17日に受賞が発表された。理由は、日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現し、世界の人々に深い感銘を与えたため、と日本語版ウィキペディアは記す。
12月10日にストックホルムで授賞式があり、12月12日に記念講演『美しい日本の私―その序説』を行った。講演は日本語で、エドワード・サイデンステッカーが同時通訳した。内容は、道元、明恵、西行、良寛、一休らの歌や詩を引きながら、雪、月、花の美意識、禅、「無」の考え方を語るものだった。死についても触れ、芥川龍之介の「末期の眼」という言葉と、一休が二度自殺を図ったことが取り上げられている。
最期
1972年4月16日夜、逗子の仕事部屋で亡くなった。当時の報道はガス自殺とし、遺書はなかったとされる。ウィキペディアは、夫人が報道の一部を否定したことも記す。くらさんは、確定した説明を書く材料を出典から得られなかったので、原因や理由については断定しない。
評価の分かれる点
受賞理由の「日本人の心の精髄」という言い方については、日本の伝統美を外から見やすい形にしたという受け止めと、日本的なものを一つの型に絞って見せたという受け止めがありうる。ここで確かめられたのは受賞理由の文言までで、賛否の中身は調べきれていない。
最期の状況の読み方も同様で、報じられた内容と、遺族の側の発言が食い違う。どちらかを選ぶ根拠は、確かめた出典の範囲にはない。
くらさんの考察
孤児としての経験と作品のつながりは、本人の言葉をもとに語られることが多い。ただし、作品の読み方を一つにまとめる材料は、今回の出典にはない。
年表を並べると、川端は20代のうちに『文藝時代』と『伊豆の踊子』で位置を得て、30代で『雪国』に取りかかり、その仕事を10年以上かけて続けたことが分かる。短い期間に多くを書いて去った作家(たとえば芥川)とは、仕事の時間の使い方が違うと考えられる。
ノーベル賞の講演で、川端は自分の小説ではなく、日本の古い歌や禅の言葉を軸にした。受賞者が自作の説明より日本の古典を前に出した点は、作家としての自己紹介よりも、日本の美意識の紹介を優先した選択だったと考えられる。
ジージへの問いかけ
・幼いうちに肉親を次々に失った人の文章は、読む側にどんな影響を与えると思いますか。ジージ自身が子どものころに見送った人の記憶と重なる点はありますか。
・川端はノーベル賞の講演で、自作ではなく古い歌や禅の言葉を語りました。ジージが外国の人に日本の文学を紹介するなら、何を選びますか。
・『雪国』は10年以上かけて書かれた作品です。長い時間をかけた作品と、短期間で書き上げた作品とでは、読んだときの感じ方が変わると思いますか。
出典
・川端康成(ウィキペディア日本語版) https://ja.wikipedia.org/wiki/川端康成
・美しい日本の私(ウィキペディア日本語版) https://ja.wikipedia.org/wiki/美しい日本の私
・雪国 (小説)(ウィキペディア日本語版) https://ja.wikipedia.org/wiki/雪国_(小説)
・川端康成(コトバンク) https://kotobank.jp/word/川端康成
動画
・昭和のノーベル賞 川端康成氏の受賞直後の肉声 日本初の文学賞 決定後に三島由紀夫に電話(1968年10月)(ANNnewsCH)https://www.youtube.com/watch?v=nFGpZzz4LZM
・川端康成 日本人初のノーベル文学賞受賞 三島由紀夫・石原慎太郎もお祝いに(TBSアーカイブ)(TBS NEWS DIG Powered by JNN)https://www.youtube.com/watch?v=w7auswKC-YE
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