No.225新着 太宰治(1909〜1948年) 津軽の大地主の家に生まれ、戦後に『斜陽』『人間失格』で時代の顔になるまで
太宰治(本名・津島修治)は1909年に青森県金木村の大きな家に生まれ、1933年に筆名を使い始めた。1939年の結婚後に安定した時期を迎えて『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』などを書き、1947年の『斜陽』で戦後の人気作家になった。1948年6月に38歳で亡くなっており、その経緯と受け止めには複数の見方がある。
本文と出典
あらまし
太宰治は、1909年6月19日に青森県北津軽郡金木村(現在の五所川原市)で生まれた。本名は津島修治である。青空文庫の作家ページは没年月日を1948年6月13日としており、享年は38である。
家は、青森県内でも指折りの素封家(代々続く資産家)だった津島家である。その家の子が、のちに『晩年』『富嶽百景』『走れメロス』『津軽』『斜陽』『人間失格』を書いた。
この記事では、年表で確かめられる出来事を先に並べ、作品を時期ごとに見ていく。心中未遂や最期のように、受け止めが分かれる事柄は、書かれていることだけを挙げ、理由づけはしない。
主なできごと
・1909年 青森県金木村に生まれる(本名・津島修治)
・1923年 父が亡くなる
・1927年 弘前高等学校に入学する。芥川龍之介の死に衝撃を受けたとされる
・1930年 東京帝国大学の仏文科に入学する。11月に鎌倉の海岸で女性とともに自殺を図り、相手だけが亡くなる
・1933年 「列車」を「太宰治」の名で発表する
・1935年 「逆行」が第1回芥川賞の候補になるが、受賞に至らない。東大を除籍される
・1936年 最初の単行本『晩年』を刊行する
・1939年 1月8日、井伏鱒二宅で結婚式を挙げる。三鷹に移り、『女生徒』『富嶽百景』を発表する
・1940年 『走れメロス』を『新潮』5月号に発表する
・1944年 『津軽』を小山書店から刊行する(11月)
・1947年 『ヴィヨンの妻』(『展望』3月号)、『斜陽』(『新潮』7〜10月号、12月に単行本)
・1948年 『人間失格』を執筆する。6月13日に山崎富栄とともに玉川上水に入り、19日に遺体が見つかる。7月25日に筑摩書房から単行本『人間失格』が出る
くわしく
津軽の家と若い時期
金木村の津島家に生まれ、青空文庫と新潮社の著者紹介は、いずれも1909年生まれ、本名津島修治と記す。ウィキペディアによれば、父は1923年に亡くなり、その後青森の中学へ進んだ。1927年に弘前高等学校へ入ると、同年に芥川龍之介が自ら命を絶ったことに強い衝撃を受けたとされる。翌1928年には同人誌『細胞文芸』を創刊し、別名義で作品を載せた。
1930年に東京帝国大学の仏文科に入学したが、同年11月28日、鎌倉の小動岬で、銀座のバーで働いていた田部シメ子とともに薬で自殺を図り、田部だけが亡くなった。太宰は自殺幇助の疑いで取り調べを受けたが、兄らの働きかけもあって起訴猶予になったと、ウィキペディアは記す。後年の作品でこの事件がどう書かれたかは、今回の出典では確かめきれていない。
筆名と芥川賞
「太宰治」の名が初めて使われたのは、1933年に『サンデー東奥』に載せた「列車」とされる。1935年に「逆行」が第1回芥川賞の候補になったが、受賞作は石川達三『蒼氓』だった。選考委員の間には、作品への厳しい評価や、作者の私生活に触れた評も出たと、ウィキペディアは記す。太宰が選評に反論したことも、同じ記事に記されている。同じ年に東大を除籍され、翌1936年に最初の単行本『晩年』を出している。
結婚と三鷹の時期
1938年に石原美知子と見合いをし、1939年1月8日に結婚した。その後、東京の三鷹に住み、『女生徒』『富嶽百景』を発表し、1940年に『走れメロス』を書いた。女性が語る形の『女生徒』と、富士を見て暮らす日々を描いた『富嶽百景』、友情を主題にした『走れメロス』は、いずれも暗さだけに収まらない作品である。出典となったウィキペディアも、『お伽草紙』『新釈諸国噺』など、ユーモアのある作品の評価が高いことを記している。
1944年には、津軽を旅した体験をもとに、書き下ろしの『津軽』を刊行した。
戦後の人気
1947年、『新潮』に連載した『斜陽』が12月に単行本になり、ベストセラーになった。同年には『ヴィヨンの妻』も発表している。この時期の太宰は、没落していく貴族の家を描く作家として、戦後の読者に広く読まれた。
最期と『人間失格』
1948年、『人間失格』が『展望』に連載された(6月号〜8月号)。新潮社の紹介文は、本作を、自殺の前に書かれた太宰文学の終着点というべき名作と呼んでいる。連載の最終回は、本人の死後に載った。
太宰は1948年6月13日、山崎富栄と玉川上水に入り、遺体が見つかったのは6日後の6月19日で、太宰の39回目の誕生日にあたった。この日は、短編「桜桃」にちなんで「桜桃忌」と呼ばれる。死の理由については複数の説があり、ここで一つに決めることはしない。未完の『グッド・バイ』は、『朝日新聞』の連載の途中で絶筆になった。
評価の分かれる点
太宰の評価は、生前から没後まで割れてきた。ウィキペディアは、退廃的・自虐的な面が強調される一方で、ユーモアのある作品の評価も高いことを伝える。同時代の作家からは、批判的な声も出た。志賀直哉は『津軽』などを批判し、三島由紀夫は太宰を好まないと公言した、と同じ記事にある。
死をめぐる見方も一様ではない。報じられたとおりの経緯のほかに、体調の悪さや家庭の事情など、複数の原因が語られてきた。確かめられた出典の範囲では、どれか一つを選ぶ根拠は見つからない。
また、占領期の検閲で削除された作品があったことが後に分かり、原典の扱いが議論になっている、とウィキペディアは記す。
くらさんの考察
年表を並べると、太宰の作品の色合いは、時期によってかなり違うと考えられる。1930年代前半は、芥川賞の落選や東大の除籍が重なった時期にあたる。それに対して、1939年の結婚以後は、短い期間に『女生徒』『富嶽百景』『走れメロス』が並ぶ。生活が落ち着いた時期にこそ、明るさや軽みのある作品が増えたと考えられる。
『斜陽』が戦後の読者に受けた理由は、今回の出典では確かめきれていない。没落する家を描いた小説が、敗戦後の読者にとって身近だった可能性はあるが、推測にとどまる。
「暗い作家」という印象だけで太宰を読むと、『走れメロス』や『お伽草紙』のような作品を取りこぼすおそれがある。作品の選び方で印象が変わる作家だと考えられる。
ジージへの問いかけ
・太宰は戦後の1947年に『斜陽』で人気作家になりました。ジージが若かったころ、周囲では太宰はどう読まれていたと思いますか。
・『走れメロス』は教科書で読んだ人が多い一方、『人間失格』は暗いと言われます。同じ作家の二つの顔を、ジージはどう受け取りますか。
・作家の私生活や最期を知った上で作品を読むのと、知らずに読むのとでは、読み心地が変わると思いますか。
出典
青空文庫 作家別作品リスト太宰治 https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person35.html
・ウィキペディア 太宰治 https://ja.wikipedia.org/wiki/太宰治
・新潮社 『人間失格(上)』書籍詳細 https://www.shinchosha.co.jp/book/830047
動画
・太宰治『人間失格』が愛され続ける秘密(京都大学/文芸批評家・浜崎洋介)(『表現者クライテリオン』チャンネル)https://www.youtube.com/watch?v=JUs-aeIv1Bw
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